●理由は人を動かす。ある程度。

注意書き



午後から京都で取材のため、とある鉄道会社が運営する「大阪」駅へ。
ホームに上がるとアナウンスが。


「12時45分発の、京都方面野洲行き新快速は」


乗ろうと思っていた列車だ。


「本日の運転を取り止めています」


え。


運転を取り止めた理由について、特に説明はない。


ほかにも快速が遅れたり、軒並み遅延が発生している。
宝塚線のウンヌンがカンヌンのため、宝塚線、並びに京都線に遅れが出ております」
どうやらそういう背景がある模様。


だが、それでも、くだんの新快速の運転を取り止めたのがなにゆえなのか、直接の説明はない。
「12時45分発の京都方面野洲行き新快速は本日の運転を取り止めています」の一辺倒。
ほかにも同様に「○○は、本日の運行を取り止めています」式の説明で済まされている列車が何本かある。
しかたなく、これまた確たる理由の説明もなく「予定どおり運行して」いると案内のあった、次の新快速に乗ることにした。
待ち合わせには15分くらい遅れてしまった。
若干の余裕をみていたので、目くじら立てるほどのことにはならなかったのだが、それでも思うところがないわけではない。


2005年の尼崎での事故以降、並列して走る他社線がある場合は極力乗らないようにしていたこの会社の列車。
今回は、この鉄道会社の「京都」駅で人と待ち合わせだったので乗ることにしたのだが、案の定、これである。
通勤ルートで使っているわけではない私のような利用者でも、たまに乗ろうとするとこういうことが頻発する。
ざっと数えてもこの5年間で10回は、この手のーー仕事上、かなりギリギリの思いをさせられるーー遅れに出会っている。
(いろんな路線を乗り入れることによって便利を図り、結果、遅れが発生するといろんなところまで累を及ぼす)
正直、多少便利になったり早く着けたりする程度では割に合わないほどの域に達していると思う。
私は阪急沿線でハタチ過ぎまで育ったが、そんなこと、まず1度もなかった。


百歩ゆずって、早く着けるんだからたまに遅れるくらいツベコベ言うな、という言い分を受け入れるとしても、
気になるのはあの説明の足りなさ、ごまかしたような言い方である。


なんら理由の説明もなしに「運転を取り止めました」というのには非常にタチの悪い欺瞞が含まれていると思う。
あの言い方だと、たまたま今日はレギュラーの運行を取り止める日だったのかもしれないという含みがあるわけだ。
実際、ネットの乗り継ぎ検索サービスを見てやってきた私は、一瞬、「あの検索サービスのデータが違っていたのかな」と思ったのだ。
それは日々、いろんな状況のなか走っている列車だから、なにか理由があって遅れることもあるだろう。
だったらなおさら、もともと走らない予定だったのか、あるいは当日突発的な障害が起きて走っていないのか、
その違いははっきりさせるべきだろう。
そこを曖昧な言い方でぼやかせるという手法に、人間的に信用ならないものを感じた。


なにか物事にあたったときに、上手くいかなくて、結果、残念なことになる。
そういうことはある。
それでも、そりゃあ理由によるさ、ということがままある。


だから、先手を打って言い訳をされたり、クレーム回避のための文言を聞かされたりすると、がっかりする。


写真はその例。
京都から帰ってきて、夜、風呂に入るときに見つけた、詰め替え式シャンプーの注意書き。


「つめかえ前にボトルの中とポンプ部分をよく洗い、水気を切ってから全量つめかえてください。」
と書いてある。
なぜそうしなければならないか、前の残りがあってはなぜいけないのか、はっきりとした理由は示されていない。


塩素系の洗剤と、酸素系のものを混ぜると塩素ガスが発生して危険ということはある。
だからそういうことを心配しているのなら、そう書けばいいし、書くだろう。
だがこれはそうではない。


そのあとにつづく、「使い切ってからつめかえて、他の製品や異なった製造番号のものが混ざらないようにしてください」という文章から判断するに、おそらくこういうことだろう。


純粋に新しい詰め替え分だけが入っている状態で使用したものでないと、なにか問題が起こっても原因が特定しづらいですよ、そうなるとこちらは責任を取りづらいですよ、だから純粋に詰め替えた分だけになるように、利用者、つまりお客さんのほうで気をつけてくださいよ。


そういうことを、この一文は語っているのだろう。
この文章を目にして、私は疲労感を覚える。
ここに、人の生理よりも企業の論理を先行させようとする志向を察知してしまう。


普通、この手のシャンプーやらリンスの類いの詰め替えを思い立つのは、それを使おうとするとき、つまり、風呂場で裸になって、さあ頭でも洗うかというときではないのか。少なくとも私は、そういうときが多い。


いざ頭を洗おうとポンプ式の容器のヘッドを押して、「あ、なくなってるな」と気づくのが毎度のことなのである。
そういうことが数回つづく。
その数回のあいだは、ヘッドの部分を取り外して容器のなかに残っている分をさらうことでしのぐ。
「そうそう、シャンプーがそろそろ切れそうだったよな」と、ほんとうになくなる寸前のところで思い出してドラッグストアで詰め替え分を買ってくる。
というのが毎度のパターンである。
それでも、忘れてたよ詰め替えなきゃ、と思うのは、だいたい風呂に入るときなのである。
そういうときに「水気を切って」だのなんだの念を押すようにいわれても困るのである。
風呂に入るのである。水気だらけの状態なのである。
水気だらけのなかで、若干残ってる以前の分をジャブジャブとゆすいで落として、新しいのを詰め替える。
これがひとの生理にのっとった「シャンプー詰め替えのタイミング」というものではないのか。


しかしながら詰め替えにあたっての注意書きは、そういうやりかたを推奨していない。
「こうしてください」ということだけが書いてある。
理由は書いていないが、それでは責任が取れないといわんばかりに。


でもな、理由を言ってくれればな、ちょっとは違うんだけどな。
わけを話しちゃくれまいか。ことによっちゃあ相談にのるぜ。
って八丁堀の旦那(こと藤田まこと)もよく言ってたし。


「動機にも自由あれ」と言い切った大杉栄は凄い。
けれども、その次元に到達するはるか手前の話で、ひとは理由次第である程度、動く。
そういうことはあると思う。


悪いけど、京都に行くなら多少時間がかかろうと阪急か京阪、神戸に行くなら阪急か阪神で行く。
悪いけど、毎回、容器ごと新しいものを買うのはいやなので、水に濡れたままの容器に詰め替える。
多少時間がかかろうと、多少リスクを負うにせよ、それでよしとしよう。
わけをいってくれないんだもの、しかたないさ。