●シブヤ畑のキャッチャー


ここ最近、とみに思うのだが、カジヒデキは偉大である。
いつも笑みを絶やさず、POP道に邁進している。
それだけでもPOPの菩薩然としているというものだが、ことここに至っての『デトロイト・メタル・シティ』(以下、『D.M.C.』)映画版における活躍を見るだに聴くだにするたびに、思いは深くなる。


昔、「渋谷系」と呼ばれて喜ぶミュージシャンはいなかった。いまだって恐らくいないだろう。
みな、そのラベリングを厭がった。
それはそうだろう。
渋谷系」というのは「お洒落を志向する者が好んで消費する音楽たち」のことであった。
それもどちらかというと蔑称に近い。

その代表と目された頭目たちは、皆さっさと場外に去っていった。
賢明である。
自身が発している音楽を、曇りなき目で見て、実直な耳で聴いて、良し悪しを判断してほしい。
誰だってそう思う。
だが「渋谷系」とラベリングされてしまうとそうはいかないのだ。


ひとつのトライブ(tribe, 部族)が形を失って滅んでいくとき、そこにはその死を見送るものが必要である。
そうでないと滅んだはずのものたちが、「化けて出る」からだ。
弔う必要があるということだ。


だが普通、そんな役目を好んで買って出る物好きはいない。
いってみれば敗戦処理投手、負け戦、消耗戦、後退戦のモップアップマンである。
そんなことより、次の流行の音楽にアプローチするほうが楽しい。
ミュージシャンとはそういうものである。


まして、「渋谷系」の意味するところが音楽の種類やジャンルのことではないのなら、なおさらである。


小沢健二は、さっさとジャズに向かい、海を越えて隠棲してしまった。
小山田圭吾は、ラウドなギターと繊細なミニマムサウンドを従えて先鋭化していった。
田島貴男は、持ち前の侠気に焦点を当て、軟弱なお洒落ミュージックとは決別した。
小西康陽は、ウェルメイドな音楽内音楽的なアプローチの円環を敷いた。
ラヴ・タンバリンズは、勃興するクラブカルチャーと一瞬添い寝したかにみせて、寝室を出て行った。


たぶんにレトリックに溺れた表現で、事実に即していないことも多かろうが、まあそんなことで、潮目が去ったあと、誰も渋谷系の位牌をつぐことはなかった。


だがそれを、ほぼひとりで引き受けているのがカジヒデキである。
そんな気がする。
渋谷系に対する揶揄も嘲笑も同情も、それらに比べればずいぶんと過小な、ほんのひとしずくくらいのリスペクトも、一切合切なにもかも引き受けて、なおかつにっこり笑っているのだ。
これは肝っ玉のある男……いやさ、「漢」と書いて「おとこ」呼ぶ、くらいの人物でないと、なかなかできないことだと思う。


内田樹さんが、東大全共闘山本義隆との関係を書いていたことがある。
http://blog.tatsuru.com/archives/001693.php


それに近いものを、渋谷系カジヒデキの関係においても見てしまう。
半分は穿ちすぎだろうが、半分はそうではないぜ、と思っている。


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