●度量の狭い言葉


北京五輪を見ていると、ま、気になることはいっぱいあるのだが、いろんな種目の準決勝や決勝が近づくと頻出する表現で、とりわけ気になった言葉がある。


「これで、銀メダル以上は確定です」というやつ。


決勝に進出すれば、まあたしかに2位以上が確定ではある。
ということは要するに、次の競技(試合)で勝てば金だが、負けても銀である。
誰だってわかる話。
そう考えれば、単に事実を述べているにすぎない物言い。


しかし、だ。
なんて色気のない言葉なんだろう。
全身全霊をかけて競技に挑んでいる選手が、「ああよかった、これで負けても銀メダルだ」てなことを思うと思っているのだろうか。
そりゃあ陸連やら水連やら木蓮やらの、メダルメダルで目の色かえてるお偉方のプレッシャーにさらされている身としては、最低でも「銀」となれば、いくらかホッとするところはあるかもしれない。
それでも次に決勝を控えているアスリートが「負けても銀」などと思いながら勝負に挑むとは私には思えないのだ。


もうひとつ、これとよく似たニュアンスを持つ表現がある。
プロ野球ペナントレースでよく言われる、「勝って貯金が……となりました」「3連敗でついに借金です」というアレ。
「貯金」「借金」というやつだ。


こういうのを耳にすると、あたしゃほんとうに萎える。
なにが哀しくて、プロのエンターテインメントや世界一を競うスポーツの実況で、そんなみみっちいフレーズを聞かねばならんのか。
スポーツだって競技なんだから駆け引きは存在するだろう。
それはそれでいい。
だがなんだって駆け引きの比喩に、セコい庶民の度量衡を持ち込むかねって話。


貯金や借金なら俺でもできる。
「コンペが取れなくったって、社内的にはベストを尽くしたって思ってもらえるだろう」……そんな損得勘定なら俺だっていくらでもできるのだ。
ひょっとして、庶民的な表現を使うことで、受け取る側に「親しみ」を感じてもらおうとでも思っているのだろうか。
そうだとしたら発想が180%まちがっていると思う。


てめえの安いアタマでもわかるようにって、何でも地べたに引きずり下ろせばいいってもんじゃない。
そいつぁ観客や視聴者をバカにしてるってもんだ。


その種目が生まれた背景。
なにをもって真の勝利とするか。
単純な勝ち負け以外にその戦いぶりを評価する視点には、たとえばどんなものがあるか。
等々、観る側が、戦う側の高み(とまではいかなくとも、いくらかその足元くらい)までよじ登ってみる程度の視座を提供することは不可能ではないし、それを待っている観客は少なからずいると思う。
選手に下らないキャッチフレーズをつけたり、バカ丸出しのタレントに薄っぺらい感動の代行業務をさせる前に、やることはいくらもあるだろうに。


しかし、ここまで書いてきて感じた。
これってそのまま音楽業界にも通じることだな。


売り上げや動員の話しかできていない。
下らないキャッチフレーズをつけたり、薄っぺらい感動の代行業務を演じてみせるばかりで、音楽の愉しみ方なんて、ほとんど提案できないでいる。