●有限の捉え方、みたいなこと【追補】


あるプロモーター氏との雑談のなかで得た話。

HIP-HOPのアーティストは、必ず(トラックを)つくれなくときが来るんです。
有限のものをリサイクルしているので。
そのあたりは、無から有をつくっているシンガー=ソングライターとは違うところですよね。

いわゆる産みの苦しみで書けなくなるときは、音楽の世界にかかわらず、どんな創作の場にもあることだろう。
けれど、それとは違って、HIP-HOPは構造的・原理的に有限であり、単なるスランプというのとは違った意味で制作に行き詰まるときが来るのだという話だった。
なるほど。
そっちのがラクなのかと思っていたが、なるほど、そうか。


どちらがどうということではない。
過去の表現の堆積のうえに成り立っているのは、どんな表現にだっていえる。
新古今集の頃から、本歌取りという方法論はあるわけだし。
サンプリングや引用ならではの愉しみというのもたしかにあるし。


でもまあそうだよなあ、限りはあるよなと、少しあとになってからじわじわと感じたのだ。


私が思ったのは、自分の仕事に関することだ。
それも、ラジオで音楽を紹介する云々というほど広い話じゃなくて、もっと卑近なところ。
いわゆる「情報」を伝えるみたいな部分のこと。


たとえば情報誌というものがある。
ぴあとか、○○ウォーカーとか○○一週間とか。
既存の「情報」というものを分類して整理して並べてある。
便利だ。


ほかに、一般の女性誌男性誌、ホビー誌なんてものもある。
俗にいうカルチャー誌だ。
ここにも「情報」は満載である。
便利だ。
便利に見える。
けど、ほんとにそうかな?
ほんとうに便利なのかな?


ある時期から雑誌のコンテンツが全部一緒になったという、仲俣暁生氏の指摘がある。
http://d.hatena.ne.jp/solar/20080501

80年代の好景気時にはジャーナリズム雑誌が流行ったが、景気が悪くなりかけると、それらは一斉にカルチャー誌に衣替えしていった。カルチャー誌の本質は何かといえば、「経費のかからない雑誌」の一言に尽きる。映画は試写会で見てコンサートは招待で行って、取材といってもタイアップのインタビューだけ。そんな雑誌は、記者クラブ制度に安住した新聞と同じようなものだ。だから私はいまのカルチャー誌にも、ほとんど期待していない。文化の領域でも、きちんとした取材をしようと思ったら、ジャーナリズムと同じくらいの手間とコストを掛けなければならないのは当然である。

ことは雑誌の話に留まらない。
そういう雑誌類をリサーチのタネにして、さらに上澄みの部分をすくって、バラエティのVTRをつくったり、トーク原稿に仕立て上げたりしているのが我々、放送業界の人間である。
ラジオもテレビも、そりゃつまらないわけである。


重ねていっておくと、HIP-HOPがそのように不毛だというのではない。
ただ、ここ20年ばかしのあいだ、引用とかサンプリングとかオマージュとか、そういう言葉を少々安易に使いすぎたかなという気はしないでもない。


ともあれ、材料のことはともかく。
無から有とか、有から有とか、そんなことはともかく。
材料がなんであれ、まずは有なるものをつくること。
そっちのが大事なことだよな、とは思ったのである。




夜は、肥後橋のナイスな立ち呑みで愉快な酒。