●備忘日録:編集の日々


来週オンエアされる1時間の録音番組「泉谷と真心の夜」の編集に、そろそろかからねばならない。
午後から局へ行く。しかし朦朧としてアタマが使い物にならない。


陽が落ちてからようやく脳も回りはじめる。
気分を変えるため外に出る。
本屋で小関智弘の「町工場巡礼の旅」、それに川勝正幸が『ありふれた奇跡』について書いたコラムが載っているTVブロスを買う。
ドトールブレンドのLargeサイズをすすりながら、80分ほどあるトークパートの起こし作業を始める。
これは、インタビュー記事などでいうところの「テープ起こし」のずっと粗いもの。
私の方法はきわめて古風なもので、A4の紙を縦にふたつに折り、そこへ「何分何秒にこんなことを話している」という内容をひたすら書き出していくのである。

0'01" マゴコロ挨拶
0'40" イズミヤ、こらーっと乱入
10'30" 曲ふり
13'25" 「70s、歌に犯罪性」
16'10" 「客は無礼でいい」

こんな具合。
これが、そのあとの編集作業における見取り図になる。
そんなものを書き出さずとも、いきなり編集(切り貼り)に取りかかれるという人もいるだろうが、私は無理だ。
ごく短いものは除いて、おおよそひとり喋りのコメントで7分、複数の人間でのインタビュー・対談・座談なら5分。それを超える尺の場合、ほぼかならずこの書き出し作業をおこなう。結局その方が早いというだけのことなのだが、これをやらないと、ひとの話の前後の脈略を捕まえることが難しい。


ひとは誰かと5分以上話すと、目的を持って(ときには台本を前にして)話していた場であっても、話があちこちへ飛ぶことから免れない。
さらに興味深いのは、その逸脱が起こらない会話は、聞いていても退屈なものである可能性が高いということ。
台本や原稿をただ読んでいるだけのスピーチや演説ってつまらないでしょう。
その逸脱や飛躍と、聞くひとの理解の及ぶロジックと、その両端のあいだに流れる黒くて深い河がトーク編集作業の現場である。
その河を潜ったり艪で水をかいたりしながら、話の舳先を引っ張って、ある流れに導くのが、この場合の編集仕事の要である。


書き出してみると「全部おもろいやんコレ。切るところなんかないやん」と途方に暮れる。逆の場合よりよっぽどいいのだから、ある意味、贅沢な悩みではあるが、番組の時間尺が決まっている以上、そこに収めなければ誰にも聞かれないままになる。目と耳をすぼめるようにして、トピックごとに会話を分け、どれを残すかを判断していく。


未明、一区切りついたところで帰宅。


町工場巡礼の旅 (中公文庫)