●脳死と人の死


脳死は人の死ではない。


というと、「ではおまえの大切な人が臓器移植をしなければ助からないという立場になったらどうなんだ」と訊ねる声がある。
うう、それは……と口ごもると、「それみろ、だから脳死を人の死として扱い、その時点で臓器移植が可能ということにすることには意義があるんだ」といわれる。


かたや、「では、おまえの大切な人が不慮の事故に遭い、脳死状態に陥ったという立場になったらどうするんだ」と訊ねる声がある。
「うかうかしてると、臓器移植を待っている人がいます、といわれて、その人はまだ体温もあり、髪も伸び、背も伸びていくにもかかわらず、臓器を持っていかれてしまうぞ。だから脳死を人の死だと認めてはならないんだ」といわれる。


……ということは、と思って考える。


考えてみるが、果たしてこれは、「将来、自分がどちらの立場に立たされるか、その可能性の高い方を支持する」ということで決せられるようなことなのだろうか。
そんな立場論で人間の生死が分けられてよいものだろうか?
「自分の身に、もしそれが起きたら」という仮定や想像力なんぞで対抗できることなのだろうか?


仮定の域でではなく、損得の領分でもなく、筋道としてどうなのか、あるいは現実としてどうなのか、そこをつぶさに考えて、考えて考えて考え抜く必要がある。そういう問題だと思う。


他人からの臓器移植が無事に行える可能性も高まったし、脳死状態に陥った人が永らえて、やがて意識を取り戻す可能性も高まった。
どちらも同じく、「医学が進歩したゆえ」である。
とすれば、どちらも同じく、根本のところに立ち戻って考えるべきではないのか。


「手術さえできれば、臓器移植さえできれば、この子は助かるんです」という言い方には、やはりどこか微妙なものを感じてしまう。
その親心の背後に囁かれる、「だから死のハードルを下げませんか」という言葉も一緒に聞いてしまうからだろうか。

脳機能が停止しただけで、あとの身体機能は動いている、「そういう人を死んでいると見なせ」という考え、そこにどうも無理を感じる。


輸血との対比で考えることも無理筋だろう。
血は、致死量に至らない量なら他人に分けることができる。
しかし臓器はそうはいかない。
脳死状態から復帰した人間の例がある以上、慎重にならざるを得ないのではないか。


「まだ助かる命」ってなんだろう?
あるいは「もう助からない命」ってなんだろうか?
それを誰が決めてるんだろうか。誰に決めることができるんだろうか。


ごらん、このコップのなかの水を。
これを「まだこれだけある」って思うか、「もうこれだけしかない」って考えるか、
どんな風に受け取るかはキミ次第なのさ。
気の持ちようで世界は違ってくるのさ、ハートカクテル(古い)。
……みたいなことでは済まないことだと思う。


脱線ついでに、エゴのこともひとつ。
エコロジーの局面においては、エゴは護られるのがここ最近の通例だ。
「あなたのエゴ? ええ、そのままでも大丈夫。持続可能な成長を止めずにできる環境への優しいこと、考えましょう」
なんて甘いことを言ってもらえる。
しかし、なぜか臓器移植に関してはエゴを通すと非難が浴びせられる。
「あなたがエゴを捨てれば−−脳死状態でもまだ生きてるなんて強情を張るのを止めれば−−ひとりのひとの命が助かるんですよ」
「他人の死と引き替えにしてまで生き延びたいなんて、エゴの発露にしてもえげつなさすぎる」
どちらの立場に立っても、エゴの立場は弱い。
なんでなのかね? このご時世に、エゴがこんなに責められるのってなんか不思議だ。
個人のエゴを封じようとする動きには、組織やお国のエゴが背後にあるのが通例。
CO2削減の問題も、企業より個人の方にプレッシャーがかかりがちだね、そういえば。


閑話休題
医療の発達によって可能になった、臓器移植という行為がある。
それを否定するつもりはない。
ただ、他人の死を前提にしなければ成り立たない行為を、成立しやすくさせるために、死の線引きを変えようという順序に同意しかねるものを感じる。
たしかにいまの制度では、(言い方ははなはだ不穏当だが)「移植可能な提供者を、みすみす逃している」というような状況があるのだろう。
だからその精度を上げるために見直しが必要だという。


しかし、と思う。


移植コーディネーターが説得に使うことが多いというこのセリフ。
「臓器はどこかで−−誰かのからだのなかで−−生き続けられるから」という言葉。
そこになにやらダブルスタンダードを感じてしまう。


脳機能が損なわれた人間のことは「死んでしまった」と称し、だから臓器を取り出してもかまわないはずという立場をとる人が、その同じ口で臓器は「生き続ける」と言う。


え? オレ、死んだんじゃなかったんですか?


「ええ。でも、移植すれば臓器は生き続けられるのです」


なら、元の身体のなかで生き続けるってことでいいんじゃないの。
明瞭な意識らしきものは認められないにしても、髪の毛が伸び、背丈が伸び、皮膚が温かい、この身体でなんとか生き続けようと思ってもいいのではないか。


ともかく、国家制度なんていう、昨日今日できたようなシステムに決められるようなことではないんじゃないだろうか。
国会議員風情に、人の生死の決定権まで委任した覚えはない。




翌日、6/20の天声人語