●逃げは打たなきゃ決まらない


ツール・ド・フランス第5ステージ。
地中海沿岸を南下して、スペインの手前の街、ペルピニャン(Perpignan)までゆく196.5kmのコース。


初っぱなから別府史之エスケープしたそうだ。
その後、10キロ地点でチームメイト、アルベール・ティマーにバトンを渡して別府は集団のなかに回帰。
とはいえ、スキルシマノといい、ブイグテレコムといい、昨日のチームT.T.では不運に泣いたチームが今日は存在感を発揮したかたち。
第2ステージの終盤で新城幸也を引っ張り、その兄貴っぷりで日本のファンの琴線も大いに揺さぶってくれたトマ・ヴォクレールブイグテレコム)が、序盤から逃げに逃げた。
さらに、残り5キロを切ったところでカウンターアタックをかけて抜け出したヴォクレール
背後から大集団が迫るなか、1着でゴール。
ツール挑戦7年目にして、初のステージ優勝。





ロードレースのレース展開のひとつ、「逃げ」。
「逃げが決まる」とか「果敢な逃げ」とか「最後まで逃げ切った」とか「逃げが容認された」とかいわれる。
中心となる大集団から抜けだして、少人数、ないしは一人で先行して走り続けることをいう。


派手な逃げが決まるのは、平坦基調のコースが多い。
ステージでのタイム差がそのまま総合タイムの差となりやすい山岳コースでは、マイヨジョーヌを狙う有力選手たちも必死である。
そんななかでは、先行しようとアタックしてもすぐチェックが入ってつぶされることが多い。
おのずと大きな逃げに結びつくことは少なくなる。
だが平坦地を走るコースでなら、チェックの範囲もしぼられる。
総合順位を争う選手たちが気にするのはお互いのタイム差だから。
だから、上位争いに関係のない選手が逃げを図っても、上位陣は気にしない。
損失にならないから、放っておいてもらえる可能性が高い。
そういう背景が、逃げが決まるチャンスを広げる。


で、この「逃げ」という行為に関して、よくいわれるのが、宝くじと比べてのアフォリズムである。
いわく、「逃げというのは宝くじと同じで、買ってみないと−−逃げてみないとわからない」というような具合に。
これに私は異議がある。
そんな風に言ってしまっては、逃げを矮小化することになってしまう。そう思うのだ。


「買わんと始まらんからな、宝くじも」と託宣めいた口調で語るひとは、一見、くじを買うという行為に積極性を見い出しているようにみえる。
だがちょっと考えてみればわかるけれど、宝くじを買うというのは、別に何ら積極的なアクションではない。
むしろ、座して幸運が転げこんでくるのを待つという受動的な態度ではないだろうか。
小銭を支払えば誰にでもできることで、あんまり大層なことを言われると困ってしまう。


ロードレースにおいて「逃げを打つ」というのはどういう種類の行動か。
少なくとも、座して勝利を待つような態度とは対極にあるものだろう。
必死にペダルを回さなければならない。
逃げ切れず、途中で呑み込まれることのほうがはるかに多い。
体力もいちじるしく消耗する。
それでも、SPEEDMANたちは逃げを打つ。


なるほど、「逃げ」も他人の思惑に大いに左右される部分は大いにある。
総合優勝を狙う選手たちから容認されるかされないかという、やや政治的な駆け引きに似た心理戦とも無縁ではない。
それでも、逃げ続けるSPEEDMANたちの姿には、ロマンチックな何かが匂う。
「逃げを打つ」行為には、負けをただの負けに留めておかない、敗者が勝者を超える存在に成りうる、そういうダイナミックな匂いがする。


「逃げは打ってみないと決まらない」とするならば、宝くじを買うなんてこととはまったく別の次元の話で、そうなのである。


ヴォクレール、おめでとう。


http://image.cyclingtime.com/photouploads/photos/123/123904.jpg