●同じAとしてBである

ボクシングのK田三兄弟とかプロ野球のN村紀洋といった類いのひとたちが苦手である。
その動向を新聞のスポーツ面で目にすることがあると「あーあ」と思う。
「そんな態度、なんぼなんでもあかんやろう」と思うような言動を、逐一きっちりとなさってくれている。
知性の欠如は気の毒に思う。
ひととの接し方や物言いに関して苦言を呈してくれるような友人も周囲にいないのだろう。
そういう友人に恵まれるのも、半分は運、半分は知性の賜物だと思うが。
もっというなら、そういう運の半分もまた知性の賜物だろう。
友人関係というのは、思うに4分の1くらいが運、
あとは自分の開放性とそれを保証する知性によって構築されている気がする。


さて、それはそれとして、ふと気づいたことがある。
この両者(計4名? K田・父も含めれば5名?)が関西弁を話すことに、いまさらながらに気づいたのである。
かように彼らの言動を不愉快に感じるのにも関わらず、
彼らが、自分と同じ関西地方の方言を話すことはまったく気にならないのだ。


海外で、品行方正とは言い難い行動をとったときに当の日本人に浴びせられる
「同じ日本人として恥ずかしい」というような感覚が、彼らには適用されないということだ。
「同じ関西人として恥ずかしい」とはまったく思わない。
たぶん、周りの関西人に聞いてみてもそうだと思う。


ナショナリズムのくびきを逃れて、自由な、優れてインターナショナルな発想をする人間が関西には多いのだろうか?
私に限っていえば、控えめにいってそんなことはない。
たとえば、歌番組でUAダウンタウンのふたりとする関西弁での会話を聴くのは好きなのだ。
だがこれも、立身出世を遂げた地元出の人間を誇らしく感じるというようなことは違うと思う。
関西弁の微妙なニュアンスがわかることが嬉しいのだろう。
微妙な味わいがわかることでその会話を愉しめるのが嬉しいのだろう。


ところが、冒頭に挙げた二組のスポーツ選手の言語運用面の特徴は、
主に「罵倒」や「不快感の表現」に関西弁を駆使するところにある。
それを東京中央のメディア諸氏も好んで取り上げているような印象を受ける。
私の気分を悪くさせる理由は、たぶんそこにある。


UAダウンタウンのやりとりも、他の地方のかたが聞けば無礼な応酬のように聞える可能性はある。
だがあの会話は決してそうではない。


亀田某や中村某が話すとき、それは関西弁であるかどうかの問題ではない。
平たくいえば、「世の中金や」も「世の中、お金でしょ」も
「マネーマネジメントに秀でた人間だけがサクセスに近づけるんだよ」も、
言ってる内容が下品という点ではなんら選ぶところがない。
その時点で私は彼らが話している方言がなんであるかに興味を失っている。
関西弁かどうかが気にならないのは、たぶんそのせいだ。


話は脱線するが、
もともと「同じ〜〜として……だ」という話法を私が好まないということもある。
だって日本人というカテゴリーでは「同じ」でも、私と彼は、それぞれ「違う日本人」だからね。


たしかに外国のひとに向かってなにかを伝えるときには、この「同じ日本人云々」という言い方が必要なときもあうと思う。
外国人からすれば、たしかに「なにいってんだ。君らは『同じ日本人』じゃないか」となる。
その感覚は不思議ではない。


だから私が腑に落ちないのは、
海外での日本人の不品行を恥じて声明を出される良識者のかたがたの「同じ日本人として」発言が
いったい誰に向けられてのものなのか、というところなのである。


お見受けしたところ、海外に向けて発信されているものとはどうも思えない場合がほとんどだ。
同じ日本人に向けて、同じ日本人として恥ずかしいと言い募る感覚。
内向きに為されるその種の言明は、普通、エクスキューズというのだと思う。


「世の中金や」というのは浪花のあきんどの専売特許、信条だった(たぶんにそれもフィクションではあるのだが)。
すくなくとも私の幼少の頃、テレビで毎週、花登筺のドラマをやっていた頃まではそうだった。


そのテーゼがバブル期を経て日本人全体に共有されるようになったいま、
備前の西、伊勢より東のかたがたに対して、
「世の中金や」的なる態度を「同じ関西人として」恥じたり、エクスキューズを立てたりする必要はなくなった。


それがいいことなのかどうか、私にはわからない。
さっぱりわからない。