●宣伝魂/制作魂


ある映画の試写会のことで、配給会社の宣伝担当のひとと話す機会があった。
で、少々思うところがあったのでその話を。


彼は、その試写会に映画の主題歌を歌っているバンドもブッキングしようとしていた。
上映のあとに1〜2曲演奏してもらおうと思ってるんです、というのだ。


それはどうかな。
私は異議を唱えた。
映画を見たあとは余韻が残る。いい映画だったらなおさらそうだ。
その余韻のなかで、バンド演奏が生半可に挿し挟まれるというのは、バンドの良し悪しや演奏の良し悪しとは別の次元で、違和感を拭えない。


私はクレジットを最後まで律義に見るタイプではない。
むしろエンドロールが流れ始めると同時に席を立つことのほうが多い。
それでも、いいなと思える映画を見たあとは、できればしばらくーーせめて小一時間くらいはーー誰とも会いたくない。
2時間前後、その作品の世界のなかに没入していたというのに、急に気持ちの転換を迫られるのを望む人間はそう多くはないだろう。


何度か説明した。
曲だったら映画の最後のところで流れてくるやん。それもめちゃくちゃエエ感じで。
そうやって幕を引いたあとによ、またあの曲をって、屋上屋を重ねるだけやん。意味が分からん。
生演奏で歌っていただきましょう、張り切ってどうぞーとかって紹介するわけ?


張り切ってどうぞとは言いませんが、と彼も譲らない。
今度は生のバンドでその曲が聴けるんですよ、そんなにダメなアイデアですかねえ。
話、もう進めてますし。


恐らく、宣伝マンとして彼は正しい。
公開前の上映に付加価値をつけて、観たお客さんに印象を強めて帰ってもらう。
それが公開後のヒットに結びつくと信じている。


一方、私はといえば、発したものの届き方や見え方にまで、どうしても意識が行ってしまう。
その映画の制作に関わったわけではないが、どういう状況で受け手がこれを観るのか、そこのところを考えてしまう。
音楽を伝達するときだって同じことだ。
私が作ったわけでも演奏してるわけでも唄っているわけでもないけれど、この曲がいちばん良く響く聴かせ方はなんだろう。


最終的にこの試写会、先にバンドが出てきて主題歌を含む数曲を演奏して、そのあとに上映という運びに相成った。
しかし違和感は残る。


繰り返すが、この宣伝担当氏の行動はパブリシストとして間違ってはいない。


気になるのは、ここでいっている違和感をまるで感じないひとが、制作する側にもどうやらいるようだということ。
そのほうが私にとっては深刻な問題だ。
放送番組の制作という仕事の現場で、裏方なら演出や構成や企画を手がけるとき、表方なら演技やトークに臨むとき、大小に関わらず、なんらかのジャッジを下す必要に迫られることは多い。
そのとき、その判断を下すためのトリガーになるひとつが、たとえばここでいう違和感ではないかと思うのだ。


いい映画を観たり、すごいライブを観たりしたあと、しばらく言葉を失うこと。
そういうとき、誰にも会いたくないという気持ちに襲われるということ。
たとえハシクレにせよ、制作者の一端を担うことができるかどうかは、その絶句する瞬間、孤立する瞬間にかかっている。
そんな気がする。