●脱稿ナイト脱力モーニング
日付が替わる前後あたりからようやくエンジンがかかり、読売の音楽評を書き出す。
「木村充揮×近藤房之助」9/6(木)@アメリカ村BIG CAT。
いいライブだったので書くのに張り合いはある。
といいつつ初稿の〆切はすでに過ぎているわけだが。
下原稿をある程度練り上げていたので、ざっと一応の最後まで書き通すのは早く出来た。
だが、ポイントを絞り込み、文章を刈り整えるのには、やはり相当な時間を要したのだった。
折角なら、ひとがあまり書きそうにないことを書きたいし、なにかひとつくらい、「へえ、そうなのか」と、自分も思うようなことを書きたいと思っていつも挑む。
つまり、自分もまだ知らないことを書くということ。
書いているうちに自分も知ることがあるということ。
木村充揮と近藤房之助の音楽は洒落ている。伊達も酔狂もある。
そしてそれは人間性に負うところもあるものの、より純粋に音楽としてそうなのだ。
その洒落っ気は、'60年代のニッポンとアメリカという、まるで違った時間が流れていたはずのふたつの時空を繋いでみせたりする。
渥美清と公民権運動と、クレイジーキャッツとモータウンと、そんなものたちを。
ブルースはそういうことのキーになる音楽だ。
決して内に閉じたものではない。
と、そんなことを書きたかったようだと気づいたが、さて字数には収まるわけもなく。
結局、800字の原稿に7時間かかってひとまず終了。
ただいま6時40分。
浪花の朝は快晴。