●箸を持ち歩くその前に


『割り箸はもったいない? ーー食卓からみた森林問題』田中淳夫(たなか・あつお)[ちくま新書]を読んだ。


私がこの本を手に取ったのは、ブームともいえる「マイ箸」推進の潮流に軽く疑問を感じたから。
現に、この新書の表紙にある、帯にあたる惹句にはこうある。

……割り箸が森林を破壊している。マイ箸で世界の森林を守るなどと大上段に振りかざす声は非常に不快である。それは事実なのかどうか十分に確認もせず、自らは森林破壊に手を汚していないかのような主張はいただけない。加えて、他人に強制したり無理に勧めないでいただきたい。……


ということは、まあ感じ方の強弱はあれ、「マイ箸」ブームを訝しむ私のような人間が少なからずはいるということなのだろう。
しかし、読み了えて思った。
これはマイ箸を持ったり、持とうとしている人にこそ読まれるべき本ではないか。

ここには、割り箸という「もっとも身近な木製品」を通して見えてくる、さまざまな話が出てくる。
「割り箸」という日本独自の食文化ツールのこと、世界の森林の問題、日本の外食産業の問題、そして日本の林業の話。
著者は割り箸を便利/不便ということでは語らない。
あくまで文化、産業という地点からクールに見ていく。
その語り口には説得力がある。


なかでも私がもっとも蒙を啓かれた思いがしたのは、林業という産業が有している独特のターム、時間の流れについてである。
昨今、それこそ環境問題への関心も背景にあるのだろう、農業へ回帰する人、特に若者が多い。
そういう記事や報道をよく見るように思う。
それは、それでいい。
「食」についての関心の高まり、組織の歯車のように労働をこなす存在となることへの忌避、ぎすぎすした都会の人間関係への嫌気……。
現代社会に渦巻く諸問題を考えると農業に関心が集まるのは、ある意味必然である。
ひるがえって林業はどうか?
環境問題的な視点からは林業の旗色はあまり良くない。
森林を伐採する産業であるところの林業は、イコール、悪業であるかのような印象を持たれているフシもある。
しかし農業と林業は、作物を植え、育て、回収するということでは同じものだ。


ただ、違うのは「その育成期間の長さ」である。
農作物なら、種をまいてから収穫までは、数ヶ月から数年。
時間のかかる果樹の類いでも十数年。一度実がなるまで待てば、あとは毎年収穫が可能だ。
しかし木材は違う。
植林から収穫まで、短くても40年、長いと100年以上が経過する。
自分が20代のときに植えたものを収穫できるのは老いてから。
子、孫の世代にならないとそれも無理かもしれない。
種播きや植林を「投資」、収穫を「資金回収」や「利潤獲得行為」とすると、投資から回収までがとてつもなく長い。
そういう産業、経済行為なのである。


それを忘れていた気がする。
ケータイで探すバイトなら、その日の朝にアクセスしてメールをもらって派遣されて、夕方には幾許かの現金を手にすることができる。
そんな風に、(自分という人材の)投資から(資金)回収までの時間が極度に短縮された現代社会には、林業は馴染まないという意見もあるという。
実際、後継者がいないというのはそういうことなのだろう。
私だって、もし親が林業の従事者だったとして、あとを継ぐかといわれれば首を横に振る可能性は高い。
だがしかし、さすがに「現代社会に馴染まない」で片づけてしまってよいものか、という気にはなる。


さあ、その林業、森林の育て方、育ち方に「割り箸」がどう関わってくるのか。
この、読みごたえのあるレポートの白眉はそこにある。


著者は割り箸を愛する人(というような情緒的表現を嫌う人だとも思うが)である。
論拠も曖昧なのに、割り箸を全否定するような物言いをする環境保護主義者に対しては、随所で反論する。


だが、最後まで読み通すと、割り箸否定論者への反駁というようなものは、後景に退く。
割り箸が生まれてくる場所への具体的な取材と巨視的な考察が、イデオロギー的な主張などどうでもいいという気にさせていく。
代わってせり上がってくるのが、「木」とどう付き合っていくのかというスケールの大きな問題提起だ。


エコロジーに意識的だという人は、よく「できることから始めよう」という。
特に割り箸はそういう発想の射程上にあるのだろう。
「手近にあるものだから、まずはコレから改善していきましょう」と格好の標的にされてしまっているところがある。
だが「できることから」と言ってしまうとき、その足元に口を空けている陥穽の存在を指摘するのは、なかなか容易でない。


自分が「環境に・地球に対して優しくないことをしている」という後ろめたい気持ち。
それを解消したいという個人的な欲求が、手早く、手軽にできることを見つけ出そうとする。
割り箸やレジ袋を目の敵にして成敗して、なんとなく気持ちの平安を得る。
「できることから」というお題目の背後に、私はそういう構図を見てしまう。


小さな行為を軽んじるわけではない。
四の五の言わずにやろうぜ、というのは嫌いじゃない。大事だと思う。
しかし、「なんだか自分を駆り立てるこの感じ」が果たして気休めにすぎないのではないかという検証を並行して行うことも必要だと思う。
そういうのが知性というものの働きだ。
もし気休めにすぎないものだったなら過大にブロウアップするのは、やはりどうかと思うのだ。


なんであれ「善かれと思ってしたことなのに……」と言い訳をする人を私は好まない。
「善かれと思ってしたこと」が良いことに結びつかなかったとしたら、どうするのか。
まず自分のジャッジの甘さを反省することの方が先決だろう。
地球が、あなたがたがいうように言葉を持たない存在なのだとしたら、てめえのジャッジの良否について、こちらが絶えず気にしていなければどうしようもないはずだ。


「できることから」と口にするとき、それが思考停止の呪文でないことを祈る。
物事を遂行していく過程で、ここぞ、という瞬間が現われたら気合いの掛け声は必要だろうけれど、
ほんとうにアクションを起こすなら、そのスタートは無言で始めていいと思う。
むしろ無言で始めたほうがいいのではないかな。


無言で動こうとしている人、動き出している人、この本は読んでおくといいと思う。




割り箸はもったいない?―食卓からみた森林問題 (ちくま新書)