●酒場の効用
近所に、朝6時までやってるカウンターバーがある。
何度か行ったことはあるけれど、少なくともここ2年は足を踏み入れたことはなかった。
もとより私は、店と馴染みになるということがどうも出来にくい。
ヘンな風に気を廻して疲れてしまう、そういうタチなのだ。
そんなわけで、毎度毎度、一見さん状態である。
それでもその晩は、妙に外で呑みたい気分だった。
なので一度家に帰って、背負ってるデイパックを玄関先に置いて、そのバーに向かったのだった。
カバンを放り出してすぐ出てくってのが、小学生っぽいなぁ。我ながら笑えた。
もはや自分は小学四年生ではなく四十路のおっさんで、時刻は学校帰りの午後4時ではなくて仕事帰りの午前4時だけれども。
* * *
L字型のカウンターひとつだけの店だが、外からみる印象より中は広々としている。
天井も高くてカウンターの幅も広い。
スツールと壁のあいだの間隔も広く取られている。
以前来たときの記憶では、ぼんやりするにはいい感じの店だった。
ドアを開けたときには先客の男性がひとりいただけ。
バーテンダーと話し込んでいる。
この近所でいい物件を探すには、というテーマらしい。
ご近所ですか?
バーテンダーが話を振ってくれた。
少々滅入っていたので、ひとりで飲もうと思って来たのだが、むしろ気が紛れるような気もした。
それくらい気さくな声だった。
……ええ。もう、すぐ近くで。
そうですか。便利でいいでしょう、この辺は。
……まあ。こんな時間にふらっと呑みに来れますもんねえ。
先客の男性(30歳ちょうどくらい?)は、近い将来に結婚する予定で、それもあって部屋探しに余念のないところなのだそうだ。
結婚と住居の関係みたいな話を20分ほどして、彼は「じゃあお先に」と出ていった。
残ったふたりで家や子供の話をしていたら、すぐに新しい客が入ってきた。
二十歳そこそこの、大学生風の若い青年。
やはり馴染みの客らしい。
やや嘆きの混じった口調で、すぐに話し始める。
元カノが……
オレはもうエエんですけど、なんでかついつい巻き込まれるんですよ……
なんかもう、ようわかりませんわ……
これって未練てやつスかぁ……?
細切れにそんな言葉が耳に入る。
バーテンダーは、多すぎず少なすぎず、適量の言葉を差し挟んで話をうながしていく。
私も、ひとりで考えごとをするより、聞くともなしに彼らの会話を聞いているほうが楽だ。
そんな気分になっていた。
そこへもうひとり、常連らしき中年の男性がやってきて、青年の近くに腰掛けた。
このひともやっぱり座るやいなや話し始めた。
今度は青年も、バーテンダーと一緒に聞き役に回る。
* * *
ただな、最近のコはな、店出てすぐタクシー乗りよんねんけど、ワンメーターで降りよんねん。
ほでな、歩いて店の近所まで戻ってきて、朝まで電車待ちよんねん。
せやろ、しっかりしとんのはええけど、もどってくるのは間違うてるわな。
頼むからお客さんに見つからんとけや、ゆうねん。
話から察するに、北新地のとある店のマネージャー氏のようである。
せやからな、ウチの店のコらにもゆうてんねん。
おまえらな、お客さんは、よう見とんねやで、ゆうて。
新地で働いとってーーそんなんどこでも一緒やけどな、基本やけどなーー
客が万札一枚出して「これでクルマで帰りや」ゆうたら、「えーこんな、いただけませんー」とかゆうたらあかん。
「ありがとうございますー」ゆうて、もろとったらエエねん。
客は、そうしたいからそうしとんねんから。
したいようにさせたるのが仕事やねんから。
ただな、きちんと領収とって釣り銭とコミで封筒入れて、持ってきとけ、と。
ほんで、次、その客が来たときにな、「こないだはおおきに、助かりました」ゆうて封筒出せ、と。
そこでお客がよ、「ええねん、ええねん。そんなん取っとけや」ゆうたら、そんとき初めて自分のもんにしてええようなるねん。
そうゆう細かいとこまで見とるからな、客は。
そっから信頼関係ゆうのができるねん。
指名とか同伴とかゆうとこに繋がんのはそっからや。
* * *
けっこう引き込まれて聞いてしまった。
キャバクラ嬢の倫理作法とはいえ、なかなか含蓄に富んでいる。
これが耳学問とゆうやつなんだろう。
暗い気分はいくらか薄れた。
替わりに眠気がやってきた。
勘定を払い、盛り上がっている三人に挨拶して帰った。
まともな勤めの経験のない私は、「仕事帰りにちょっと一杯」というコトの成り立ちが、このトシになるまでよく分かってない。
外で妙に気を遣って呑むよりは、家で呑んでるほうが気がラクだ。どこかでそう思っている。
だが、酒場の効用というものを、ちょっと感じた夜だった。
* * *
ミナミの、とあるバーのホームページ。
たまたまのぞいてみる機会があったのだが、酒場での常連客とのやりとりをPodcastで流している。
つい先週から始まったところみたいだけれど、これがなかなか面白かった。
ほんとに他愛のない会話なのだけれど。