●KICK OUT THE COPIES.


個人的に、80年代以降の変化について、いつも考えているところがある。
その変化の下地として、「広告」はまちがいなく大きな位置を占めている。


昨日の朝日新聞・朝刊(2008年1月10日付)に、池澤夏樹が寄せていた稿が目を引いた。
「政治と言葉」というタイトル。キャッチが「コピーの文体を追い出せ」。


概略を記す。

ここ何十年かのあいだで日本語における「言葉と人の関係」が変わった。
現代の日本人にとって、言葉というのは、まず「コピー」である。
この種の言葉は、商品の説明だから、まあ多少の誇張も混じっているだろうという具合に軽く受け取られる。
消費者としてそれは間違っていない。
ただ、問題は言語生活全般がこの軽さに染まってしまっていること。
あらゆるものの商品化が進んでいることが背景にある。
かつて「空気と水以外は云々」という言い方があったが、いまでは空気も水も商品となった。
だから会話のなかでも、自分を商品に見立てたような言葉遣いが増えた。
「わたしって何々な人だから」「自分的にはOKです」等々。
ある程度の嘘を最初から含んでいて、大袈裟な造りで、見た目は派手で魅力的だけれども、しかし信用ならない言葉。
だとすれば政治家の言葉にも嘘や誇張が混じり、事態が変わるとさっさと撤回されるのも当然ではないか。


後段は、こういった軽い商品的な言葉に対して、重みのある実質の言葉をぶつけていくしかない、と展開されていくのだが、私は政治の言葉との関連云々よりも、普段の言葉が貧しくなった説明として、興味深く読んだ。
「おまえら全部コピーで喋ってんだろ、語ってんだろ」と指摘されたようで、けっこう効いた。
ここ30年近くの我々の言語生活をとりまく変化として、「言葉のコピー化」というのはかなり芯を捉えた指摘のように思う。


コピー文体による言語は、咀嚼せずに嚥下できる言葉だ。
そうでないと、電車の車内の中吊り広告やグラビア雑誌の巻頭の広告には添えられない。
かたや、歯を立てて噛み切り、奥歯で噛み砕いて咀嚼しなければ呑み込めない言葉というものも存在する。
それは難解ということではなくて。
最近よく引き合いに出している川上未映子の言葉とか、しがむように咀嚼してしまう。


ただ、佇まいは一見後者のようでありながら、内実は前者のコピー言葉というのもある。
相田みつをの色紙言葉というのはその代表的なものだろう。
で、そういうものが蔓延している気は、とうの昔からしていて、わりと息苦しい。


言葉の総コピー化。言葉のインフレーション。


ラジオの番組の原稿も、ほとんどそんな言葉で埋め尽くされている。
自戒を込めてそう思う。
たかがロックフェスに行くくらいで、なにが「参戦」だ。
「思わず鳥肌が立つ」ような音楽が、そう年に何曲も出てくるものか。


とはいえ、悪態をつくばかりじゃしようがない。
もうちっと内実を伴った言葉を探さなきゃな。


とりあえず、友部さんの「銀の汽笛」を聴こう。

暗くなった罰として 夜を牢屋に閉じ込めた
月が逃げださぬよう 鉄格子を三本窓にはめた


これはコピーにはならないもの。




遠い国の日時計