●なににどれだけ賭けようか


火曜日、昼の番組、毎週スタジオライブを届けるレギュラーコーナー、今日のゲストはエレファントカシマシから宮本浩次氏。


凄いライブだった。
目の前のマイクとかミキシング卓とかコンプレッサーとか送信塔とか電波とか受信機とかスピーカーとか、そういう夾雑物をすべて突き抜けて、聴いている人間の耳元にダイレクトに到達する歌。


20年前、心斎橋のライブハウスで観た彼のステージを思い出した。
数組の新人バンドが出るそのイベントライブで、彼・宮本浩次ゆらりとステージに現れたかと思うと、いきなり「くぉんなことばかりーつづけぶぁーこのよはーぢごぉぉぉくぅー」と「Blue Days」を歌い出したのだった。


かなり構えたステージングではあったが、フェイクなところはまるでなかった。
彼は、たしかになにかに怒りを覚えていて、それは相手の見えない怒りではあったが嘘やハッタリの類ではなかった。
自分と同い年の、この怒れる男を俺は、多大な興奮をもって見上げていた。
30分足らずのライブをやっつけると、帰り際にはモニタースピーカーを蹴飛ばし、会場を一瞥し、「あぁ、やりにくい」と吐き捨てて、彼は帰っていったのだった。


いまの宮本氏はあの頃とは違う。
当時と比べれば、それはまあ穏やかなものだ。
けれど、いつだってあのギラギラした感じを内に蔵している気はする。


それはそうと、今日の放送のなかで、そのライブの前フリと煽りに、エレファントカシマシの昔の曲をかけた。
「星の降るような夜に」。
EPICからの最後のアルバムとなった、『東京の空』に入っていた曲。
これも、最新作のひとつ「俺たちの明日」と同じく、友人に語りかける曲だから、いま聴くと改めてなにかしら訴えるものがあるかもと考えて選んだ。
結果からいうと、彼らの歌は軸がブレていないので、13年前もいまもあまり変わりはない。
「歩こうぜ」が「さあ頑張ろうぜ」になっているくらいで、基本は同じである。


で、数日来、気になっている「ともだち」バナシに考えが及んだ。
この、エレファントカシマシの「星の降るような夜に」もそうだが、“友達”をうたった曲には、いい曲が多い。少なくとも昔は多かった。


あと、やや皮肉な視点からのものだと、

とか。


で、近頃の感謝系Rapのトモダチソングを聞いてみた。
やっぱりね、初めから懐かしむことを目的としてるようにしか聞こえないんだわ。


前の稿で「無時間モデル」という言い方を借りたけれども、それはつまり、時間の経過という要素をまったく加味しない、必要としないカタチのもののこと。
なんらかの出来事の前と後でも、まったく変化のないものとして設定されている主体のこと。
これは経済活動をおこなう上では都合がよい。
というか、そうでないと経済的な面では困るのだろう。
宝くじで3億当たろうが、それは収支が3億プラスになっただけのことで、そのことで主体が変化することはない。
でないとクールな経済活動はできない。


そういうひとは、ともだちが元気でいようが落ちぶれていようが成り上がっていようが、昔のことを憶えていようが憶えていまいが、自分のことを恨んでいようが忘れていようが、基本的に関係ない。
そんなことで左右されない。
ただ、「ともだちはいいもんだ」という定説や信憑があるだけなのだと思う。


まったく、眠たいこと言ってくれるぜ。
あんた、ひとを裏切ったことはないか。
とても大事だと思っていた人間を裏切ったことはないか。
そういう陰影が刻印されていない歌にうたえるのは、記念碑に刻まれるようなありがたいお言葉だけだと思う。
誰それナニガシは偉かった。以上。
自分とそいつの関係なんてなものは、これっぽっちも刻めない。
そんなもんだろう。


悪いけどそれじゃ足りないんだ。
だから歌なんて聴くんだ。
俺はそう思うのだが。


失礼。ちょっと酔ってます。