●「ともだち」から逃れよ


昨日触れた、橋本治の『日本の行く道』と『20世紀少年』についてのメモ。


『日本の行く道』の第一章「『子供の問題』で『大人の問題』を考えてみる」のなかの、〈「友達」が学校を占拠している〉という見出しで括られたパート。
これがかなり凄いことを言っている。


そこまでの概略を記すと、今の日本の社会のあり方の一つとして、まず「いじめ」の問題を考えることから、橋本氏一流の思考がスタート。


いじめというと、必ず「昔もいじめはあった」という考えが出てくる。
昔の子はそれに堪えたのに、今の子は堪えられなくなっている、それはおかしいという考え方。
それに対して、今のいじめは昔のいじめと違ってもっと陰湿なものになっているのだというのが、「今のいじめ」を知っているという人の意見。
これに氏は、「昔と今で違っているのは、いじめにあった子供が自殺をする」という一点だけであると看破する。
1980年代の初めに、「小学6年生の男の子がいじめを苦にして自殺」というニュースがあり、それが「いじめで自殺した小学生」の初の例だったという。


そこから、いろんなことが指摘されていく。


本来、保護されていることが自明のことである子供という存在、
親からの虐待といじめは似ている、
前者は死に至るまで「親による虐待」を口にせず死んでいくのに対して、
後者は最終的にいじめがあったという事実をその死によって明らかにする、
けれど違いはそこだけであって、ただ堪えて死に至る、死を選ぶということでは両者は同じなのだ、
昔は「いじめっ子」というものがいた、
多くは家庭環境に由来する事情を抱えていて、そのせいで問題行動を起こしていた子供だったが、
彼らは子分はいても友達はいなかった、孤立した存在だった、
ともかく、そういういじめっ子というものがいなくなった、
そうして、自分を脅かす敵はいまでは自分の周辺にいるようになった、
いまやいじめの被害者と加害者のあいだには境界線がない……と、
そこまで指摘しておいて、問題の箇所に入る。

だからなんなのか? 子供が「自分の家よりも好き」と思ってしかるべき「学校」という場所が、今や「友達」という得体の知れない人間達によって占拠されているのです。「友達」というのが、「得体の知れないもの」になってしまった。だから「友達」から攻撃を受けたらかわしようがなくなるし、逃げ場がなくなるのです。
「友達」とは一線を画したところにいる「いじめっ子」なら、彼は「教室の外にある彼の属する場所」に帰って行きます。ある意味で「いじめっ子」が力をふるえない学校は、「いじめっ子からの避難場所」にもなります。でも、「友達」は教室から消えないのです。だから、「友達」であるような人間が攻撃を仕掛けて来たら、いじめにあった子は、その「友達」のいる所から消えなければならないのです。


どうだろう。凄くない?

かつての世の中には、「いじめっ子」のような、明白な「他者」がいました。つまり、その人間との間には、距離があったのです。でも、今の世の中には「距離のある他人」が存在しにくくなりました。本当なら「距離のある他人」であるはずの存在が、「距離を置いてはいけない。”分かり合える仲間”として考えなければいけない」と思われるようになって、その結果、「あってしかるべき距離」が消滅してしまったのです。


ずばずば刺さる。

「分かり合える仲間」というのは、「分かり合える時間があって、その結果、仲間になった」というような存在です。でも、その「結果」に至るための時間が、大幅に殺がれてしまっているのです。「距離のある他人」が、いきなり「分かり合える人間」になって、そのためにすべてが極端になったのです。本当なら、「まだ他人」であるような人間が、いきなり「仲間」とか「友人」として振る舞い始めたら、とまどってしまいますーーそれが当たり前なのに、その猶予のための時間が失われているのです。
   ーーー『日本の行く道』橋本治[p.46-47]


まるでそのまま『20世紀少年』における”ともだち”論になっているのでは? というようなハマり具合である。
加えて、なにかっつうと「ともだちのうた」ばっかり歌いたがるJ-Popの皆さんや、「みんなともだちー」っつってるJ-HipHopの方々への問いにもなってると思う。
あの手の「感謝系Rap」(と私は勝手に呼んでるのだが)やら、「前向きPop」(これも勝手に呼称)に感じる薄気味悪さがどこからよって来たるものか、ちょっとわかったような気がする。


その所以とはなにか?
彼らがーー内田樹氏や平川克美氏がいうところのーー「無時間モデル」で生きているように思えるからではないか?
昔ながらの言い方をすれば「予定調和」的という表現が近い。


彼らは「ともだち」というものが、以前から続いてきたもの(関係)で、それは永遠に続くもので、しかももちろん仲が良いものであるということを自明のこととして疑わない。
それを確認して「絆」と呼んだり、「かけがえのないもの」扱いして、悦に入っている。
私にはそう見えてならない。


小泉響子の言葉を借りるならば、「そんなのともだちでもなんでもない」。




「無時間モデル」で検索してみると、内田樹さんも、子供の自殺と時間の流れ方について言及していた。
http://blog.tatsuru.com/2006/11/14_1212.php

これもとても深い指摘。






日本の行く道 (集英社新書 423C)  20世紀少年―本格科学冒険漫画 (1) (ビッグコミックス)