●“便利”は、ときに高くつく


“便利”ということについて。


“便利”という事柄全般に対して、どうも身構えてしまうところがある。
その手の話を聞くときも、眉に唾つけてるところが大なりである。
少しでも便利になるならそのほうがいいはずだ、と無条件に捉えることができない。


ひとつには、こんな話を思い出してしまうから。


mo’some tonebender百々和宏氏の著作『泥酔ジャーナル』。
あとがきに、酒屋を営んでいたご実家のエピソードが出てくる。
角打ちカウンター(関西でいうところの「直売所」、酒の立ち飲みスペース)を併設していて、
それはそれで赤ら顔のおいちゃんたちの集いの場となっていたその酒屋で百々少年は育った。
おいちゃんたちに縄跳びの二重飛びを教わったり、強い喧嘩ゴマの作り方を教わったりしながら。


喧噪に包まれたその家で、やがて少年はおいちゃんたちの相手を必要としなくなっていった。
ずっと「普通の家に住みたい」と願っていたようである。


長じてのち、少年が高校に入った年、実家はコンビニエンスストアに改装することになる。
時代の流れでもあったのだろう。
ただしかし、コンビニの経営は想像を超えて過酷だった。
ご両親はといえば、人に仕事を任せるよりも自分の手が先に動いてしまう、そういう人だった。
喧噪まみれだったが笑顔の絶えることもなかった家から、笑顔が減っていった。
お母さんの晩酌の量は増えていった。


百々少年が、百々青年となり、バンドをやるために東京へ出て、2年が過ぎた頃、実家のコンビニは潰れたという。
建物も土地も人手に渡って。


百々氏はそのことについては、特になにも言っていない。
ただそういうことがあった、という書き方である。


だがわたしは思う。
“コンビニエンス”っていったいなんだろう。
“便利”って、誰にとっての便利なんだろう。
便利さを手に入れる対価について、きちんと考えた人はいるだろうか。


昔、小学校の授業で分度器が要ることがあった。
前の日の夜、それを忘れていて、すでに7時で店を閉めた文房具屋に行ってシャッターを叩いたことがある。
コンビニが開いているおかげでそういう心配はなくなった。
でもコンビニのおかげでほんとに便利になったのって、それくらいのものじゃないか。
その替わりに、どれだけのものを差し出しているのか、わたしは恐ろしくて計れない。


コンビニも、そりゃ利用することはするけれど、いますぐにコンビニがひとつ残らず消滅しても、まったく困らない。
本気でそう思っている。
そういう人間がいるということを信じてもらえないのは残念だが、まあ仕方ない。
ただせめて想像はしてみてもいいんじゃないか。


わたしは想像力を使っていきたいと思う。
少々不便でも。
なぜならそのほうが愉しいので。