●カネのことは貯金箱と括弧に入れて


今朝の朝日の天声人語に出ていた話。
大リーグに挑む桑田真澄野茂英雄
ともに今年40歳を迎えるふたりのことから、“人生の達人”だった臨床心理学者、河合隼雄の言葉へ。

河合さんは、「年齢を括弧に入れる」ことを勧めていた。
「年齢を忘れる」のとは違う。年齢は自覚しつつ、それはそれとして何かに挑むこと。
それは、若さに駆られてしゃかりきになってやるよりも、豊かで味わい深い試みなのではないか、と。

ま、そういう括弧入れの勧めという話なのだが、個人的に、これ、カネのことでも言えないか、と思ったのだ。


「カネのことを忘れる」のは資本主義社会に生きている限り(なおかつ一生食うに困らないほどの資産に恵まれてでもいない限り)どうしたってできそうもないが、「カネのことを括弧に入れる」のはできない相談ではない。
むしろ大事なことである。
どういう局面でか、というと、ものを作る場面において。
ものを作ってみて、それが結果、予算をオーバーしていたり、元が取れなかったら(それはまあそういうこともある)、それはそのとき考えればいい(もちろん大変な事態に陥る可能性もあるけれど)。
なぜって、作る前からカネの算段ばかりで頭がいっぱいでは、「これまでになかったものを作り出す」ことは非常に困難だからだ。


カネのことを忘れよと言っているのではない。
ただ、括弧に入れてみないかと言っているのである。
そのくらいの知的作業はできるのが、人間ってぇものの、せめてものアドバンテージであるのだから。


この、脆弱な手足と薄い皮膚しか持たない生き物が、なんとか数万年も生き延びてこられたのは(すでに生き延びすぎているという批判は当然あるだろうけれど)、いろんな心配事を「括弧に入れて」とりあえず「遊ぶ」ことができたからではないか。


野球という遊びを続けていこう、それもアメリカで遊んでみよう。
そう考えて実行するのは、いろんなことを括弧に入れないとできない話だと思うのだ。
心配事を指摘するのは誰にだってできる。
三者にだって可能だ。
むしろ当事者のことを思ってのこと、と装うことだってできる。


思えば、これまで綱を渡るように40年ほど生きてきたけれど、心配事を指摘してもらって助かったと思ったことはあまりない。
かなり失礼な言い方になって申し訳ないが、心配なのは本人だって心配なのだ。
それを屋上屋を重ねるように言ってもらっても、まあそうですよね、と生返事を返す以外、あまり言いようがないのである。


それよりは「俺もないけど心配すんな/そのうちなんとかなるだろう」の伝で、「そのうち」と括弧にくくってもらったことのほうが、なにかとよく覚えているものなのだ。


そんなの無責任なだけじゃん、という声が上がるかもしれない。
そのとおり。
無責任なだけである。
でも誰も、それでその助言者に責任をかぶせようなんてことは思わないだろう。
決めるのは自分なんだから。


だいたい他人がくれる心配なんてものは、大概、エクスキューズとワンセットのものなんだから、あんまり気にしたって仕方がない。
それよりは、「括弧に入れる精神力」(タフネスとも図太さとも、単にアホともバカともいえるもの)を鍛えたほうがいいのだ。


「心配事につける薬」とかけて
「となりの空き地にできた塀」ととく。


そのココロは?


「カッコいいー」


……おあとがよろしいようで。