●費やす抽象、作る具象


今朝、3/28付けの朝日新聞天声人語欄より、要約しつつ引用、抜粋。

日本の食料の自給率の話。卵も1割。飼料の9割を輸入に頼っている。
輸入された餌を食べたら、生んだ卵も「自給外」。
同じ伝でいくと、牛肉は11%。豚肉は5%。
カロリーベースの自給率はそれほどに低い。
農水省によると、飼料の輸入が止まると卵は7日に1個しか食べられなくなる。

卵好きとしては(卵好きでなくても)まったく笑えない話である。


火垂るの墓』で主人公の少年・清太は、衰弱した妹・節子のために卵を探し回る。
医者に「滋養が必要だ」と言われて。
だが戦時下に卵が容易に手に入るわけもない。
清太の「滋養ってなんですかー」という叫びは、西原理恵子によって相対化されていたけれど、これがシャレでもギャグでもなんでもない時代が実は足元まで迫ってるような気がする。


それはそうとーー。

一方、米には減反の嵐が吹き荒れている。
米は余るばかりなので、去年は価格が暴落した。
東北農政局は、作りすぎを「資源のムダづかい」と書いたポスターを作った。
あまりの言い様だと、農家の怒りが渦をまいた。
米を作る側と、食べる側の違いを、明治生まれの仏教思想家、鈴木大拙は「食べる人は抽象的になり易く、作る人はいつも具体の事実に即して生きる」と言った。
米に限るまい。野菜も肉も、そしてギョーザも、食べる側は、生産の現場からは遠くなりがちだ。

なるほど。
ということで、ここからは我田引水バナシである。
このブログを始めた意図のひとつーー「ラジオ制作の話をする」ーーに即して、これもそこに引きつけて考えてみたい。
どういうことかというと、ここから「モノを作る」という姿勢、立場の話を読み取ろうというのである。


汗水垂らして作った作物を、「資源のムダづかい」と結果論だけで排除されては、それはたまらない。
役人がなにを言ってるんだということである。
書類を右から左へ動かすだけで仕事になる連中に、田植えから雑草・虫の駆除、日照時間のカウント、水利への腐心、取り入れの喜び、そんなものが分かってたまるか、と。
その気持ちや、もっともである。


しかし役人の側にも、こういう言い分があるかもしれない。


「作りすぎ」という事態を回避するために生産調整という発想があるのだ。
だから上の例でいっても、「資源のムダづかい」という表現が言い過ぎのそしりを免れないかもしれないだけで、基本姿勢は間違っていない。
状況を読めずに、ただただ作物を作りつづけるだけというのでは、これからの農家も立ちゆかない。
もっと大局を見るべきだ。需要もないのに米を作りつづけてもムダに終わるだけなのだから……。


なんとなく説得されてしまいそうである。
消費ベースに重心を置いて考える限り、そういう発想が出てくるのも道理なのかもしれない。
ただしそれを言うならと、ちょいと踏みとどまってみたい。


なぜ、「作りすぎ」という事態が生じるようなことになったのか。


そこを考えなくていいという法はなかろう。
そこまで思考を推し進めてこそ、件の問題の専門家といえるのではないのか。
その“謎”が解ければ、日本の食料管理制度に変更を迫ることができるかもしれないわけだから。
そこまで考えてようやく、効率やコストパフォーマンスが多少低下しても、自給率を上げることができるならそのほうがいい、そういう発想だって出てくる可能性がある。


若年就労者の雇用不安という問題(いわゆるニートだフリーターだっていう問題)にも関係してくることだ。
効率を下げることで、大量の人手を必要とすることになるかもしれない。
手間のかかる農作業という仕事こそ、都会の賃労働では「生き甲斐」「やり甲斐」を見出しにくくなっている若者にアッピールするところ大かもしれない。
だったら、手間暇かけてきちんと自前の卵を作るということが、雇用政策の一環となりうることもあるってことである。


ものを作るってことでいえば、やっぱりラジオ番組を作るのだって、通じるところがあるのだ。
意外と第三次産業ではないのだな、放送番組の制作というのは。
サービス業ということだけでは括れないものがある。
米を作るのに、俗に言う八十八の手間があるように、ラジオの番組を作るのにだって、それなりの手間暇がかかる。
ボタンを押せばそれで良しというのではないのである。


喋り手を誰に任せるか。
選曲はどういうラインを基本線とするか。
テーマBGはどうするか。
フリートークの際のBGMはどうか。
ゲストはどうか。
ジングルは、どういうタッチのものを、どこに挟むべきか。
CMに入るタイミングは、この呼吸でいいのか。
どういうリクエストを選ぶか、多くの支持がある曲を選ぶか、ひとりでもユニークな曲を選ぶか。
番組でプレゼントをするならどういうものがいいか。
曲名の紹介は、曲をかける前でするか、後でするか。
etc...etc...。


これらの事柄は、食べる人ーーつまり受け手、広告論の用語でいえば「マーケット」ーーの側からだけ見ていたのでは、分からないことだらけだろう。
なぜなら、巷間言われているマーケティングという観点は、これすべて後付けの結果論でしかないから。
なぜ、この方法を用いて、こういう内容のものを提示したのかということを、市場がどう受け取ったかということでしか考えない。
それは“後出しジャンケン”に限りなく近いやり方だ。
控えめにいっても、物事を全部、“出口”のところでしか見ていない発想だと思う。


「ほら、それ受けなかったでしょ、それは市場が求めてなかったからなんですよ」
「いやぁ、いいのを作ってくれましたね。よくぞマーケットが求めていたものを探り当ててくれました」


そんなもの、どっちに転んだって、どうとだって言える。
そんな幇間みたいな立ち位置では、トンネルの入り口に立って、ひとつひとつの案件をクリアしながらモノを作って出口までを掘り進んでいくなんてことは到底出来ない。




これ、でかいハナシなので、これでは終わりません。
また次回。