●20000のコミュニティ


または、 Where have 20 thousands the communities gone? と始めてみる。


ゴールデンウィークの最中、堺の浜寺公園に行った。


もともとが大阪北部の、阪急沿線育ち(といってもガラのいいところでは全然ないが)の私には、堺・泉南方面というのは心理的にかなりの距離を感じるエリアである。
しかし大阪市内の、それも環状線の内側に住んでいると、その心理的距離も縮まっていくものだ。
以前は、電車好きの長男(当時3歳)を連れて、よくJRの環状線に乗りに行った。
文字どおり「乗る」のが目的だ。
ぐるぐると何周も乗る。
彼は基本的にずっと窓の外を見ているのだが、そのうちに疲れて眠ったりする。
そうすれば、そっとベビーカーに乗せて帰宅すればいい。
傍目からみると、たぶんカミさんに逃げられた男やもめが幼子をあやしている図にしか見えなかったろう。
それで全然いいのだ。
だが毎回そうはいかない。


ときにはぐるぐる回ってばかりいることに、(主に私の方が)飽きることもある。
そんなときは、環を外れることになる。
天王寺で降りて、ホームからいろんな特急電車を見物したりした。
それにも飽きたときには、ふらりと阪和線に乗ったりする。
一度、その伝で和歌山まで、鈍行で行ったこともある。
もちろん改札は出ずに、20分くらいホームで「くろしお号」などを見て過ごしたのちには、そのまま折り返すのである。
日頃、自転車通勤であまり電車に長く乗ることのない私にはそれなりに新鮮な時間でもあった。


浜寺公園もそんな思いつきで行った場所のひとつ。
しかしその一度きりのことを、奴はやたらと詳細に覚えているのだ。


やれ「汽車に乗った」だの(浜寺公園の園内には汽車仕立てのミニ列車が走っている)、「チンチン電車で車掌さん遊び、やったなあ」だの(園内にある交通遊園に、阪堺電車の車両が1台置いてある)だの、「びゅうんて走るあのくるま、速かったなあ」だの(やはり交通遊園にあるゴーカートのこと)だの、「黄色いボール買ってくれたなあ」(露店でカラーボールを買って遊んだ)だのなんだの。
数少ない“お出かけ”の記憶を、味昆布でもしがむように反芻している我が子が不憫で不憫で……というのは半分冗談だが半分事実。
やや心苦しく感じていたところで、今年の連休は曜日の巡り合わせに恵まれて比較的自由が利く。
きのうに続いて天気もよい。
ならば、と浜寺公園再訪となった次第。


天王寺から我孫子道で乗り換えて浜寺に向かった。

かようにVOW的なコピーにカメラを向け、息子に怪訝な顔をされたりしつつ。


各駅停車で30駅ほど。
40分以上かかる道のりなのだが、不思議と飽きない。


路面電車の車窓からの眺めというのは独特である。
普通の電車とは違って、目線が低い。
かといってバスとは、なんというかスピードの出し方が違う。
車とは違って、ある一定の速さを維持するところはやっぱり電車なんだなと思う。
レール上を走るがゆえのブレもなんだか心地いい。
鉄道マニアではないのでよくは分からないが、あのじかにモーター音が響いてくるところもいい。


乗り合わせたひとともよく目が合う。
子どもを連れているということもあるだろうけれど、にこにこと笑いかけてもらえることが多い。
通勤電車の感じとは全然違う空気なのである。
ま、たまに行楽気分で乗るだけの人間が口にする鈍感な感想にすぎないけれど、これはやっぱり悪くないもんだと思う。



その車中で頭に浮かんだのが、“コミュニティ”という単語だった。
このところ、仲俣暁生氏の“海難記”http://d.hatena.ne.jp/solar/において頻繁に言及されている「出版と書店の未来」についての考察が頭に残っていたせいかもしれない。
たとえばそのなかで、氏は、書店の数が減っていることに関してこんな風に書いている。

かつての全国に2万いくつもあったという書店の数が、郵政民営化前の「特定郵便局」の数とほぼ同じだと気づいたとき、私には問題の本質が少し分かった気がした。日本という国にはある時代まで、2万程度の自立した小さなコミュニティが津々浦々にあったのだろう。そこには特定郵便局があり、町の書店があり、それらを必要とする実質的なコミュニティがあった。ようするに、これまでの日本の書店のほとんどは「特定書店」だったのではないか。

家賃のかからない自宅などの物件を店舗にし、アルバイトのほかに従業員を置かず、基本的には家族が経営する小さな町の書店。その経営の基盤を支えたのは店頭売りだけではなく、外商だったという。外商が成り立つには、そこに学校があり、商店街があり、そこに暮らす人たちのローカル・コミュニティが実質的に成り立っている必要がある。ローカル・コミュニティが失われれば、その場所にお店がある必然性もなくなり、お店の喪失がさらにローカル・コミュニティの崩壊に拍車をかける。そのプロセスが1970年代後半から30年程度、つまりほぼ「一世代」にわたり続き、その結果として現在の風景があるのだということが、久しぶりにこの本を再読してみて、私にもようやく身に沁みてわかった。


   仲俣暁生:「小田光雄『出版社と書店はいかにして消えていくか』再読」より http://d.hatena.ne.jp/solar/20080426#p1


失われた2万の自立した小さなコミュニティ。


日本の公共交通機関をめぐる現在の状況に関しては寡聞にして詳しくない。
だが電車・鉄道・バスたちも、ここで言及されている“ローカル・コミュニティ”のなかで大きな役割を果たしていたもののひとつではあったろう。
それらローカル・トランスポートの行く末はどうなのか。
この阪堺電車も維持していくにあたっては相応の苦労があると聞く。
「ローカル・コミュニティが失われ」「そのプロセスが1970年代後半から30年程度、つまりほぼ『一世代』にわたり続き、その結果として現在の風景がある」ということを私は路面電車に乗って感じた。
私はこの風景をなくすことには反対である。


いたずらにノスタルジーで言っているのではない。
それこそいたずらにコミュニティを壊していって、替わりに得たものはその代償に値するものなのか。
そのあたりを、一度クールに考えてみてもいいんじゃないの、ということなのだ。


 
 




現在のインターネット社会の到来を、高度成長期のモータリゼーションの波になぞらえて説明する言い方がある。
クルマ社会の到来により、人の移動と物流は劇的な変化を遂げた。
流通における、このドラスティックな変化は、ひとことでいうと日本を狭くした。
コンビニも宅急便も、この変化なくしてはおそらく成立しなかった業態である。
結果、クルマの出現は人間の社会のあり方を変えていった。
ひととの付き合いも変えていった(男女の付き合いも。特に80年代には)。
インターネットも同じだという。


なるほどそうか。たしかにインターネットは世界をひとつにするかもしれない。
それがグローバリゼーションというものなのかもしれない。
だがしかし、日本に少なくとも30年前には2万あった世界(世界だと思う。コミュニティというのは)が、ひとつに融合されたのではなく、どこかへ霧のように消えてしまったのだとしたらーー。
それはいつか祟るかもしれない。
2万の共同体の祟りを祓うコストなんて計算しようもないと思う。
だからこれは、ノスタルジーで言っているわけでもなんでもなくて。





http://www.hankai.co.jp/



仲俣暁生【海難記】から。

出版、および、ラジオ(的ナローバンドコミュニケーション)に興味のあるひと必読のエントリーの数々。