●『風はびゅうびゅう』礼賛


「お腹の中に牛二頭、もうぎゅうぎゅう」というのは故・広川太一郎氏の名言(名台詞、名駄洒落?)であるが、寺尾紗穂のニューアルバム『風はびゅうびゅう』がとてもいい。
 まちがいなく、ここひと月でいちばんよく聴いている盤。


 突然に始まる歌とともに、すっと現れて耳元でずっと響いているかのようなピアノ。
 ピアノの古名ーーClavicembalo col piano e forte、クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ(強弱を伴う大型のチェンバロ)というのだそうだーーの由来どおり、繊細な弱音から激烈な強音までをなんとも自由に行き来する。
 遊具も間仕切りもなんにもない、ただの野っ原で寝転がってるような解放感を伴って、その広いレンジの音のなかで、心ゆくまで翻弄されていたい、そんな気になるのだ。


 声そのものも、個人的に琴線に触れる。なぜかはわからない。
 女性の声でいえば、私はリッキー・リー・ジョーンズの声が最高に好きなのだけれど、寺尾さんの声はリッキー・リーと似ているわけでは全然ない。スモーキーではない。どちらかといえばウルトラ・ナチュラル・クリスタル。私の好みの声の王道とは離れてる。


 でもね、綺麗な声なんだけれど、それは、言うなれば汚れを拒絶するような潔癖なものではない感じなんだ。
 たとえば、湧き水や場合によっては泥水を、飲料に適した水に替えるための濾過装置というのがあるでしょう。ボーイスカウトなんかが、小石やら炭やらを何層にも敷き詰めてフィルターにしたようなやつ。
 子どもの頃読んでた「小学生五年生」とかに「大地震が来たときのサバイバル術・10」てな特集で載ってた。断面図といっしょに。
 うまくいえないけれど、ああゆう装置のような佇まいを寺尾紗穂の歌唱に感じる。
 こんな例えじゃ、全然わからんよね?


 なんというかな、いくら美しくたって「無垢」って単語には、どこか「無責任」とか「ただ頭使ってないだけ」とか「敵前逃亡」みたいなイメージも離れずについてまわってるように思うのだ(って、こんな風にどっかねじくれたイメージ持ってるの、俺だけ?)。


 だいたい四十男なんていうのは、ふつう心身ともに汚れ倒してるので、うっかりピュアな真水とか飲んだりすると、かえって腹こわしたりする。適度に汚れた水でないと棲めない、背骨の曲がってしまった魚、とでもいうか、そんなところがある。
 だから迂闊にキレイなものには近づかない。キレイゴトを警戒する、そういう防衛本能が働いてる。


 その点、寺尾さんの歌(とピアノ)には、「四十男でも呑める真水」みたいな、そんなところがあるのだ。
 どっか雄々しいってのも大きいかもしれない。
 んー、ますますわからなくなったかな。
 いやはや、でも熱烈に支持します。ほんとすごいから。




風はびゅうびゅう  『風はびゅうびゅう』寺尾紗穂