●著作権は槍なのか鎧なのか


アスキー新書から出ている『著作権という魔物』岩戸佐智夫・著を読んだ。


帯にはこうある。

現行の「著作権」は日本を滅ぼす

バックにあしらわれているのは、ある記者会見の壇上に並んだ人々の姿。
YouTubeとパートナーシップを結ぶことを発表するために集まった日本企業の代表者らの写真だ。


いろいろと示唆に富んだ内容だった。
著作権をめぐる意見を、立場を異にするさまざまな人間から訊いている。

  • ネット上の著作権の未来は?
  • 世界に向けて日本が売り出すだけの、価値のあるコンテンツは存在するのか?
  • ミュージシャン=実演者=権利者にとっての著作権とは?
  • 著作権管理団体・「社団法人JASRAC」とは?
  • 映像コンテンツのキングホルダー、「テレビ」の行く末は?


そのなかから印象に残った話をひとつ。


なぜテレビは強いのか。
メディアとして、あんなにも強大なものになってしまったのか。


その長年の疑問を解いてくれる、ひとつの考え方が紹介されていたので、私見を交えて考えつつ、咀嚼しながら紹介してみる。

国の認可を受けなければビジネスができない類の産業がある。
電力会社もガス会社も、水道や鉄道もそうだ。
モノポリーにも電力、水道、鉄道のコマがある。いずれもチャンスがあれば買っておいた方がいいといわれる権利だ。


ふつう、それらの参入規制のある産業には収入規制がある。
参入規制がある公益事業では限られた数社がパイを分け合うため価格競争が起こりにくい。
そういう状況下で独占的に事業を行う会社組織が、もし利益追求に走った場合、国民の不利益になる。
そのため価格設定の上限が国によって定められているのだ。


しかし、電波に関してはその収入規制がないという。
電波を使った事業を規定する法律ーー放送法は、戦前の無線電信法に代わるものとして1950年、新たに制定されたものだ。
いまのテレビ放送が始まった頃であり、まだまだ映画が娯楽の王様だった頃。
1953年当時、テレビの広告費は1億円。
対する映画はその500倍。映画とテレビの市場規模の比率は500対1だったのだ。
家庭にテレビ受像器などなかった時代なのだから、それはそうだろう。
見る人のいない映像サービスに広告を打つ人間がいるわけもない。


そこから鉄塔を建てに建て、テレビ受像器をーー街頭テレビから始まってーー売りに売りまくって、なんとか産業として立ち上げていったというのである。
収入規制なんてものがあったらまるで立ちゆかなかっただろう、と。


テレビ産業は、そのくらい圧倒的に不利な状況から始まったベンチャービジネスだったのだ。
そういう背景のもとに優遇されてきたテレビが、誕生から50年余りを経たいまでは娯楽の王者となり、絶大な影響力を誇るようになった。
しかしもともとが優遇されているからコスト改善など頭になかった。
高コスト体質を温存したテレビ産業は、映像ソフトという宝を持ちながら、インターネットに適応することができずにいる。


総務省は、アナログ波の送信を停止し、デジタル放送に切り替える2011年、放送と通信に関する9つの関連法を一本化して、新たに「情報通信法(仮)」を施行することを目指している。
そのとき、放送局、通信会社、インターネット接続業者らはどのように位置づけられることになるのか。
コンテンツ制作者、コンテンツ提供者らは? コンテンツの享受者、消費者らは?


※ 自分なりの考察も交えてあるので、文章どおりの引用ではないことを注記しておきます。


なるほど。
現在のテレビが、かつての映画産業のような道をたどる可能性も大いにありそうだ。
娯楽やメディアの趨勢なんてわからないものだもの。


そんな風に、よくわからなかったメディアの一面を、著作権をキータームにして知ることができた。
そういうところもこの本の興味深い部分なのだが、加えて、意外だった箇所も紹介しておきたい。


この手の新書としては珍しいことだと思うのだが、現状の単なるレポートに留まらず、最後の章では著者自らが意見を述べている。
それも、どちらかというと、明快とは言い難い意見である。ややロマンティックな修辞を施しすぎでは、と思わないでもない。
だが著者の真情に即したものだということは伝わる。
そのせいで、そこまでのレポートにつきまとっていたある種のわかりにくさに、いくらか合点が行くという効用もある。
それはそもそも「著作権」というものにまつわるわかりにくさと同根のものかもしれない。
単なる財産ではなく、作者の人格を保護するという役割を負ったもののわかりにくさ。
人格を守るという建前のもとに、財産として長持ちさせようという発想がでてくるわかりにくさ。


著作権が、財産権ばかりでなく、人格としても大きな権利を持たせられているのはなぜか。
著者はそれを「誇りということに尽きる」という。
「この法律を定めた者は人の誇りと言うものに焦点を当てたのだ。それは精神性に通じる」と。


人の権利にもなれば、権利を守るために際限のない義務を課す足枷にもなりうる、そんな「著作権」について考えるとき、「精神性」というものがキーワードになるかどうか。
それは私にはよくわからない。
だが、ひとつの指針にはなる気がする。
著作権が法律であるなら、そこには下品も上品もない。法は法だ。
しかし法である以上、どう運用するかは、ひと次第だ。
おそらくその運用の仕方には、敬意を伴った手つきとそうでない手つきとがあるのだ。




著作権という魔物 (アスキー新書 65)