●底無しの井戸みたいな悪意の存在


どうにも収拾のしようのない気分がつづいている。
それをうまく言い表すことなど到底できない(だから収拾がつかないといえる)のだが、重たい気分が身体の底のほうに漂っている。
秋葉原で起きた無差別殺人のことだ。


メディアでは報道がつづいている。
容疑者の生い立ち、家庭環境、学歴、職歴、置かれた境遇などがつまびらかにされてゆく。
私はこの種の事件やなにかで積極的に情報を求めるというようなことはしないタチなのだが、それでもそのくらいの話は洩れ伝わってくる。


この事件をどう捉えたらよいのかという識者の意見も目にする。


東浩紀:絶望映す身勝手な「テロ」
http://www2.asahi.com/special2/080609/TKY200806120251.html

私たちは彼のような「幼稚なテロリスト」を不可避的に生み出す社会に生きている。(略)その意味をこそ真剣に考えねばならない。


ネットの世界では容疑者の境遇や犯行に至った動機について、我が身に即して考えようとする姿勢の意見も多く見られる。事件に巻き込まれることがではなく、事件を起こしてしまうことに関して他人事ではないという。
私には正直、そこのところがよく分からない。


今回の事件で非正規雇用の問題や勝ち組/負け組といった粗雑な二分法について考えを巡らすのはかまわない。背景にそういった、いまの日本社会が抱えている閉塞感といったものがあると見るのも、まあなしではないだろう。


自分だって同じような境遇に長く置かれたら自制が効かなくなり、壊れていく可能性があるのではないか。
そう我が身に問えば、可能性がまったくないとは言い切れないだろう。
だがしかし、と思うのである。


●【秋葉原無差別殺傷】人間までカンバン方式
http://d.hatena.ne.jp/boiledema/20080610#1213114352


これも興味深く読んだ。
不定期な雇用の問題が、こうしていま語られるのもむべなるかな、とも思う。
だが雇用の問題と、この事件とを一直線に結びつけることには留保したい。
なぜなら同じような境遇に置かれた人間は、ほかにもごまんといるなかで、ではなぜ、そのほかの人たちは同じような事件を起こさないのか、その理由をはっきりと指摘することはできないだろうと思うからだ。


なにより、この種の猟奇的事件でいつも思うのは、「やはりこれ以上のことはどう考えたって自分にはわからない」という、想像力の及ばない領域があるということ。そこは正直に認めざるを得ない。


たとえば20年前に起こった連続幼女殺害事件。
幼い子に声を掛け、行動をともにし、結果、連れ回すようなことになってしまったということは想像がつかないでもない。しかし、命を奪ってその上むごたらしいことをして遺骸を家族に送りつけるというようなことは、平均的な人間にはとても想像しうることではない。


たとえば11年前に起こった神戸の連続児童殺傷事件。
顔見知りの児童とプロレスの技をかけたりして戯れるなかで、ふと個人的な鬱屈が殺意となって顕在化することは想像できないでもない。しかし頭部を切断して人目にさらすというのは、どう控えめにみても、自分だってやりかねない行為だなどとは思えない。


たったいま自分が跳ね飛ばした人間を、底意もなく介抱している人のそばに近づいて、背後からナイフを突き立てるという行為が、誰にだってーー追い詰められ方次第でーーできることだとは、私にはどうも思えないのだ。




山田太一が昔エッセイに書いていたことを思い出した。
「子供のころの事など」という題の文章。

 子供のころの私には「悪い事」をする同年輩の連中には、かなわないという思いがあった。自分が「悪い事」が出来ないのは、先生に叱られるのが怖いからで、他に理由がないことを知っていた。いたずらをすると、された人が迷惑をするからしてはいけないのだ、というような頭の働きはなく、ただ「いけない」といわれているからしない、というだけのことで、小、中学生ながら、それは意気地のないことだという思いがあった。

という書き出しで始まる。
幼くして実母を亡くし、戦争で伊豆に疎開し、そこで成長するなかで家庭は複雑になり、経済的にも恵まれはせず、継母の連れ子に手を焼き、家族の朝ご飯の支度をして学校へ行き、帰りは遊びもせずに帰宅して夕飯の支度をし、家業の手伝いをし、父と継母の争いのあおりもくうといった環境。昨今の教育論議からすると、ぐれても一向に不思議はない境遇だったにもかかわらず、なぜかそうはならなかった。

それは「克己の精神」などというもののせいではなく「悪い事」に対する私の臆病さ気の弱さだった、と思う。

しかし、もうひとつ理由があった、と続けられる。

それは、今のように新聞、テレビが、子供について細かな議論をしなかったことである。こういう環境で、こういう親なら、そりゃあ子供はぐれますよ、というようなことを、ほとんどいわなかった。少なくとも少年の耳には入らなかった。

今は、一人の子が金属バットで親を殺すと、忽ち「受験生のおかれている状況」というように議論がひろがり、出来の悪い受験生たちが、親の前で、俺だって殺すかもしれないんだから、扱いに気をつけてくれよね、といった顔をする。少しぐらいは乱暴する権利があるのではないか、という気になる。ああした特殊な事件を、すぐ潜在的にはどの受験生の家庭にもある問題だ、というように一般化する議論が、微妙に人々の現実を見る目をあやまらせているという気がしてならない。

この文章が書かれたのは27年前、1981年のことだ。
なかで「金属バット」云々と出てくるのは、この前年の秋、神奈川の宮前平の家庭で起きた事件のこと。思うように進学が決まらない予備校生の次男が、エリート志向の両親を撲殺した事件である。


30年近くが経過しても世間の関心の持ちようにはあまり変わりがない。より一層、因果関係に過敏になっているようにも思える。その割りに安易な三段論法で事足れりとしているようにも。
いわく、加害者は歪んだ価値観が支配する環境に育った>ゆえに自身も歪んだ価値観を共有するに至った>ゆえに歪んだ凶行に及んだ、という具合に。
でもこれでは、なんにもいってないに等しい。


今回の秋葉原の事件を追ったNHKスペシャルhttp://www.nhk.or.jp/special/onair/080620.html]を見た。
なかに、容疑者と同じ職場で働いていたひとたちへのインタビューがあった。
容疑者と自分とのあいだに、あまり違いを認められないでいるひとも幾人かいた。
気持ちはわかる、と彼らはいう。


その思いは真率なものなのだろうなと思う。
皆、真面目そうなだけにどこか痛ましい。
だが私は「自分がそうであっても不思議はなかった」と口にすることに違和感を覚えずにはいられない。


考えがたい事件が起こると、いつも犯人捜しが始まる。
物理的な容疑者というだけではない。
被疑者が捕捉されたあとは彼/彼女を行動に駆り立てた、動機という犯人探しに移ってゆく。
そうして、加害者の心の内(とされるもの)を明らかにして、こんなやつは人間じゃないと、自分たちの世界の埒外に追放して心の平安を得る。
あるいは、自分のなかに「我が内なる○○」(○○には過去の陰惨な事件の加害者の名前をどれでも代入可)を発見して、「理解」してしまう。
こういってはなんだけど、それでおしまい。手打ちにしてしまう。
どちらの態度も居心地の悪い状態から脱しようとするところは似ている。
で、「またしても悲劇は繰り返されました。防ぎようはなかったのでしょうか」とアナウンサーは叫ぶ。叫び続ける。




なんとも持っていきようのない、もやもやした気持ちでいるところで、鉄火場Aさんのブログを読んだ。
鋭い知見になにげなく触れることができる場所である。


●いや、ほんのちょっとだけ。「答え探しの独り言。」
http://yummyao.at.webry.info/200806/article_14.html#comment


ほんとうはここの文章だけを引っ張って、この件に関する第1ラウンドはそれでよしとしてもいい。
それくらい深い含蓄に富んだ文だと思うのだけれど、大事なことほど引用だけで済ますのは礼儀にかなっていないとも思う。
少しは自分の手と頭を使って書いておかないと、と思ってこうして長文を連ねている。


鉄火場Aさんがこのなかで村上春樹の作品について触れているのを読んで、はっとした。
それはそのまま優れた作家論にも通じるような、本質的な指摘だと思う。


たしかに村上作品には、ほぼ毎作、なにかしら圧倒的に理不尽な暴力によって傷つけられ、損なわれた存在が出てくる。


ざっといま、思いつくままに挙げてみてもこれだけいる。


だが村上春樹は加害の理由について執心しない。
関心がないわけではないと思う。
贔屓の作家、トルーマン・カポーティには『冷血』という代表作があるし、自身も地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教の信者、元信者らにインタビューしたノンフィクション『約束された場所で』を著している。


しかし、自分はそちら側に立たない、それよりもこちら側にいて留まる人を描くのだという無言の意志を感じる。
(あちらとこちらという安易な二分法が適切でないのはわかっているが、それでもこう呼ぶしかないような、ポジションの違いはわかっていただきたい)


そういえば、山田太一にも似たところがある。
ドラマの脚本家であるにもかかわらず、かなり早い時期に「いわゆる事件もの」は書かないでおこうという枷を自らに課したと語っていた。
犯罪の主人公には現代の歪みのようなものが凝縮されていて、そういう意味では「絵になる」し、「ドラマになりやすい」のだけれど、それでは結局、描けずにこぼれていくものが多すぎる。たしかそのような意思表明をしているのをどこかで読んだ。


先に列挙した村上作品のなかでも、とりわけ印象に残っているのは『1973年のピンボール』に出てくる猫に関するエピソードだ。
ちょうど全体の真ん中くらいにあるくだりだと思う。
その前章で、「僕」はアパートの近くにあるゴルフ・コースに双子ーーなぜか部屋に居着いてしまった不思議な双子の姉妹ーーを探しに行く。
そのゴルフ・コースには、三人でよく散歩に出かけることがあったのだが、ゴルフボールが飛んでくることもある。
双子ふたりだけでは危ない。
ビスケットの空箱をバンカーで拾ったあと、双子を見つけた僕は言う。
「パンカーにゴミを捨てちゃ駄目だ。昔、砂場で怪我をしたことがある。誰かが割れたサイダーの瓶を埋めておいたんだ」
ビスケットの空箱で手を切る人はいないけれど、砂場に何かを残してはいけない。砂場は神聖で清潔なものだから。
そう言って、僕は双子を諭す。


その次の章。
僕の暮らす街から、遠く700キロ離れた街に住む「鼠」と呼ばれる友人の話になる。
眠れずに深夜、起き出した鼠は行きつけのバーに行く。
閉店後のそのバーで、鼠はバーテンのジェイと話をする。


早く帰らなくていいのか? と問う鼠。
ジェイは、構わない、誰が待ってるわけでもないという。
ぽつぽつとジェイは語る。
一人暮らしだが猫が一匹だけいる、と。
長いつきあいだから気心も知れてるし、話し相手にはなる、と。
そんなやりとりがつづいたあと、しばらく間をおいて、ふっとジェイが言う。

「片手なんだよ。」
「片手?」鼠は訊き返す。
「猫のことさ。ビッコなんだよ。四年ばかり前の冬だったね、猫が血まみれになって家に戻ってきたんだ。手のひらがママレードみたいにぐしゃぐしゃに潰れてたよ。」

 なぜそんなことに? と鼠は訊く。

「わからないよ。車に轢かれたのかとも思った。でもね、それにしちゃひどすぎるんだ。タイヤに轢かれたくらいじゃ、そんなにはならない。ちょうどね、万力にかけられたような具合だったね。まるっきりのペシャンコさ。誰かが悪戯したのかもしれない。」

「いったい誰が猫の手なんて」と首を振る鼠。

「そうさ、猫の手を潰す必要なんて何処にもない。とてもおとなしい猫だし、悪いことなんて何もしやしないんだ。それに猫の手を潰したからって誰が得するわけでもない。無意味だし、ひどすぎる。でもね、世の中にはそんな風な理由もない悪意が山とあるんだよ。あたしにも理解できない、あんたにも理解できない。でもそれは確かに存在しているんだ。取り囲まれてるって言ったっていいかもしれないね。」

 

 自分にはどういうことかよくわからない、とかぶりを振る鼠にジェイは「わからないで済めば、それに越したことはない」という。
 長い沈黙のあと、鼠は「二十五年生きてきて、何ひとつ身につけなかったような気がする」と話す。
 ジェイは答える。

「あたしは四十五年かけてひとつのことしかわからなかったよ。こういうことさ。人はどんなことからでも努力さえすれば何かを学べるってね。どんなに月並みで平凡なことからでも必ず何かを学べる。どんな髭剃りにも哲学はあるってね、どこかで読んだよ。実際、そうしなければ誰も生き残ってなんかいけないのさ。」


 私がこの小説を読んだのは1982年の暮れ、十五歳の頃だったけれど、このくだりはよく覚えている。
 実際、この言葉が頭をよぎることはこれまでに何度かあった。
 どんなことからでも努力すれば何かを学べる。


 とまあ、このジェイの言葉を人生訓のように受け取ることも可能だけれど、村上春樹の話はそう単純なものではない。
 ジェイの言葉に、鼠はこう返す。

「あんたの言うことはわかりそうな気がするよ。」でもね、と言いかけて鼠は言葉を飲みこんだ。口に出してみたところで、どうしようもないことだった。


 鼠が言葉を飲みこんだのも、いまならわからないでもない。
 何かを学んだところで、取り囲む悪意に対しては何の役にも立たないかもしれないじゃないか。


 少なくとも三十を過ぎるまで言葉を飲みこんだままで行かねばならないとは、十代の俺はさすがに思いもよらなかった。
 だがいまにして思えば、村上春樹はこの小説を、当時三十一歳で書いているのだ。


 思うに、いくら備えをしたところで、次に襲ってくる新たな悪意に対しては何の効果も期待できない。
 それでも、努力すれば何かを学べる、そうでもしないと生き残っていくことすら困難だと、もう一度身に沁みてわかるのが、四十過ぎってことなのかもしれない。




 結局、引用で語るだけに終わってしまった。
 もやもやは一向に収まらない。
 たぶん、収める必要もないのだけれど。





いつもの雑踏いつもの場所で (新潮文庫)  1973年のピンボール