●クレームの入らないコーヒーなんて


俗に、企業において「いちばん修養になる部署というのは苦情対応窓口(いわゆるクレーム処理係)」なのだそうだ。


たしかに本屋のビジネス書の棚には、「クレーム対応が会社を伸ばす」みたいな書名の本がいくつも並んでいる。
いわく、「苦情は会社にとって財産です」「クレームがお客様のニーズを教えてくれます」てなことが書いてあって、クレームをヒントに新たな商品開発にこぎつけた例が載ってたりする。


なるほど。
私はこの意見に半分うなずく。
が、残りの半分では、どうかな、と怪訝な気持ちを抱く。


クレーム対応、クレーム管理の専任に、自分が任じられたらどうだろうと想像してみる。
そこに寄せられる顧客からの苦情には、社の製品がかかえている欠点や、接客の上で修正すべき点を気付かせてくれる声があるだろう。
それに根気強く対応していけば、おのずとその反対のこと、すなわち「こうすればプラスなのだ、会社にとってもユーザにとっても」という事柄が見えてくるかもしれない。理想を言えばのことだけれど。


けれど、それも程度の問題ということがあるのではないか、と思うのである。
延々とクレーム管理を続けるのが私だったら、これらのクレームを根絶できればいいのに、という欲望が生まれてくるのを抑えることはできないだろう。
どこからもクレームの入らない状態が私にとっての理想郷なわけである。
エルドラドが実現できれば、なにも受話器の向こうの顔の見えない相手に向かって、ぺこぺこと頭を下げる必要もない。
一方的に怒鳴りつけられて電話を切られることもない。
家まで菓子折りを持って伺うこともない。
結局は金目当てという病んだクレーマーに対峙することもない。
なんて素晴らしいんだろう。
クレーム発生率がゼロになれば、会社にとっても大きな利益になるんだし。


そうして彼/彼女が、未然にクレームを防ぐことに力を注いでいくとする。
すると次の段階ではなにが起こるか。


クレームにつながる危険性のあることは事前に避けるようになる。
そういう可能性は高いのではないか。


クレームをクレームと認めて対応するには、基本的に謝るという方法しかない。
だが、クレームをクレームにしないという前提で考えるなら、打つ手はいくつもある。
クレームと認めなかったり、知らん顔したり、というのも立派な戦術のひとつとなる。
製品を作ったり、サービスを実施したりする部署に釘をさせればいうことはない。
クレームに発展するようなものは作るな、そういう行動は取るな、と。


ひるがえって私の現在の仕事、作業を例に考える。
日々、番組を制作して聴き手に届けるという仕事をしていくなかで、考慮しなければならない事柄はいくらもある。


放送法はもちろんのこと法令は遵守せねばならない。
ユーザのニーズを推し量らねばならない。
ともに働くDJ、喋り手、タレントやスタッフのモチベーションを維持することも大事だ。
ゲストに迎えるミュージシャン、アーティストが生み出した表現にも敬意を。
協力してもらっているレコード会社やイベンターの希望もないがしろにはできない。
クライアント、スポンサーの意向は基本的に絶対だし、営業の要望にも留意が必要だ。
その上で、なにより内容のある番組を作らなければならない。


だから、クレームがつかないように単に配慮するというのは、制作者として心がけるセオリーのなかに含まれることではある。
そこも含めて、制作者は「どう? 面白いもんができたでしょ」と言えるようなものを作ることに身を削る。


だが「どこからも」クレームがつかないことを至上命題として配慮するというのは別の次元の問題だ。
クレーム対応に気の行き過ぎた人間は「どうだ、これでどこからも文句はないだろう?」と、達成感に満ちた口ぶりで語ったりする。
しかしちょっと考えてみればわかることだけれど、全方位どこからもクレームがつかないというようなことはおかしなことなのだ。
どこも気にもしないようなつまらないものを作るのだったら可能かもしれないが、そんなものを作られるのは、本来、ユーザからすれば充分にクレームものである。


ただし、これではいまひとつ具体性に欠ける。
実践篇として、「どこからも」クレームがつかないようにする有効な方法を伝授しておこう。


それは、自分を消すことである。


相手を慮んばかって自我を消すというような奥ゆかしい話ではない。
自分を出していると、そこを突かれる危険性があるから消すのである。


なぜこの曲を選んだのか、なぜこのゲストをブッキングしたのか、なぜこのネタを紹介したのか。
それらの動機を「ユーザが欲していたから」といえたなら、番組づくりに失敗しても自分が責められることはない。
なぜなら「マーケットがそう望んでいた(少なくともその時点では)」のだから。
マーケットを読み違えたのではないか、と指弾されれば、「それは結果論です」と答えれば済む。


もし万が一、成功すれば(といってもそれは番組づくりにではなく、聴き手を増やすことに成功したということだが)、そのときは何恥じることなく「マーケットの声を、私がきちんと聞き取ったからです」と答えればいい。
栄冠は君に輝く


もしあなたが聴いているラジオがつまらないとしたら、それは私の責任です。
しかしながら、つまる/つまらないというのは主観の問題でございますから、しかるべき窓口にお届け出いただいても、クレームとしてはお取り扱いしかねる場合もございます。


たしかにね、賞味期限や原材料を偽装しているのでなければ、いくら不味いものを作ったって罪にはならないものね。
けど誰も買わなくなるよね、そういうものは。普通はね。
それが市場原理ってもんじゃなかったっけ。
そうなったら、クレーム根絶どころの話じゃないんじゃないかな。


クレーム管理が自己目的化することの危険性について、考えてみた。