●Teach Your Children.


よくわからないことがひとつ。


環境問題を声高に語るひとの話のなかによく出てくるのが「子どもたちに、次の世代にひどい環境を渡したくない」というテーゼ。
それはよくわかる。
異存はない。全面的に同意する。


ただ、これはビミョーなところなので、私は声高には言いたくない。
言いたくないのだけれど、どうしても気になる。
次世代の環境をおもんばかるわりには皆さん(俺も含めて)、寛容だよなということがある。


そんなの、家庭問題であり、家族の問題であり、いってみればプライベートな問題だから他人が余計な口をはさむ問題ではない。
実際、個別的にはそうだと思う。
自分のまわりの心あるひとびとには、みなそれぞれの理由があるのだろうと思う。
自分だって突然三行半を突きつけられることがないとはいえないのだから、こういうことを言い立てて、いいことはほとんどない。
しかしなあ。


と、まわりくどい書き方をしてるが、なんのことか。


離婚のことである。


次世代にまともな環境を残したいと言われるが、だったら、子どもがいる家庭がかくも多く離婚していくのはどういうことなんだろう。
そういうことが、ふっと気になった。


別に片親だって子どもは立派に育つと思う。
そんなの関係ないよとも思う。
ただし、いま大勢の方が取り組んでいる環境問題というのは条件闘争に近いところがある。
これだけのCO2排出量の引き下げを達成させた、というところでのやりとりも非常に多い。
それは「良い環境というものが数値的に計れる」と考えていないと取り組めないアプローチではないか。
なので、そう考えている方に訊いてみたい。


子どもはひとりの親が育てるのとふたりの親が育てるのではどちらが、より良い環境だと思いますか。
より良い環境を求めるならーーこれは想像にすぎないがーー「できればふたりのほうが……」ということにならないか。


   *  *  *


個人の問題というかもしれない。
けれど個人の尊厳という概念は、ごく近代になって生まれてきたもので、日本でも戦後60年、欧米でだって、せいぜいここ百年がいいところの発想だろう。


いまだって、カトリック教徒が離婚するのは簡単ではないし、ジョージ・ウォーカー・ブッシュの後押しをするキリスト教右派の勢力は中絶の禁止(規制)を打ち出し、いわゆる“伝統的な家庭の価値”を支持している。
要は“個人の問題”に公権力が口を出してくる時代は、それほど昔のことではないし、いま現在だって世界にいくらもそんな地域はあるのだ。


そんななかで、環境への意識と、自己の尊厳への意識がこんなにも突出して高い国民って、とてつもなく恵まれてるか、とてつもなく病んでるか。
どっちにしたってなんかバランスおかしいぞという程度の意識は持っててもいいんじゃないか。


   *  *  *


誰も好んで破局に至るわけじゃない。そんな夫婦は稀だと思う。
おそらく大半は何らかののっぴきならない事情から別れていくのだろう。それ以外に選択肢のない状況だってあるだろう。
なにも離婚が悪いといっているわけじゃあない。
ただ、次の世代につなげる良い環境って、別にCO2を減らした世界だけってことはないよな、ってこと。


「子どもたちは私たちの事情もよくわかってくれました。経済的につらい目には遭わせるつもりはありませんし。たったひとつの円満な解決法が残念ではありますが、離婚という方法でした」てなこと言ってるひとが、同じその舌で「子どもたちの世代に美しい地球を!」と口にするのを快く聴いていられるほど、私は人間ができていない。


ただただ疑問に思うだけなのである。
なんでみんな、地球にはそんなにやさしいのに、目の前にいる人間にはそうできないんだろうか。
通勤電車で居合わせたとか、そんなんじゃない。毎日顔を合わせている人間との話だ。


逆の問い方をしたほうがいいかもしれない。
地球にはやさしくする方法がいくつも提案され、とりあえずできることからやっていけばいいというマニュアルが出来ている。
だが、家族にはこうすればやさしく接したことになるというルールはない(ないと思う。相手は人間だもの)し、どこまでやさしくすればいいかもわからない。
だから難しいのだろうか。
マニュアルがないから?


そいつぁ、しんどい話だな。


   *  *  *


なんだかダークな気分になってきたので、家族を連れて祭に出かけた。
花火見物(といってもほとんどビルの影になって見えないのだけれど)。



息子が「金魚つくり」をしたいという。「金魚すくい」と「魚釣り」がごっちゃになっているのだろう。
よっしゃ、金魚つくりやるか、と祭の中心になっている神社に行った。


鉾が帰ってきたら大騒ぎになる天満宮の境内だが、なぜかこの時間は、まだひっそりとしていた。
射的、スマートボールとーーどれも上手くはいかないもののーーテキ屋のおいちゃんに相手してもらって、機嫌良くふたつ、屋台をめぐって、ようやく金魚すくいである。


角に陣取って息子に言った。
「隅っこまで金魚追いかけて、さっと掬うんや」
すると、番をしているおばさんがすかさず口をはさんできた。
「そんなんあかんわ。子どもにそんなこというたら。そらあかんわ、あんた」
思わず俺は顔を上げておばさんのほうを見た。


ちょっと目が合った。
にらみ合ったというほうが正確だ。


「コツを教えてるだけやで。あかんのか」
言い返すと、おばさんはぷいと目を逸らせてしまった。


なんでも先にガイダンスをほどこしてしまう、私の現代的な父親風の態度にも問題はあったかもしれない。
だが、それを年長者がたしなめた、というようにはーー私の心と料簡が狭いせいもあるだろうけれどーー受け取れなかった。


そうだよな、昔の駄菓子屋のばあさんって、こういうひといたよな。
意地の悪いひといたよな。
別にいいひとばかりじゃなかったよな。
世の中いいひとばかりだなんて、無理矢理そんなこと思わないでもかまわないよな。


そう思うと、滅菌された世界でなつかしい異物(粉ジュースの素とか、毒々しい色の飴玉とか)に出会ったような気もした。


現実にむかつく自分と、そういう現実を呑み込むあの感覚。
ともかくギアは噛み合って、精神的には小康を得た。


息子は、そんなこととは関係なく、せっせと紙の網を動かして金魚を掬っていた。
5尾掬ったところで紙が破れた。
彼はそれなりに満足そうだったので、金魚はもらわなかった。
「釣れなくても一匹あげます」と看板には書いてあったけれど。
おばさんも何も言わなかった。


   *  *  *


金魚すくいの位置取りについて子どもに教えるのは、果たしてルール違反だっただろうか。
それはいまもよくわからない。