●〈自尊〉と〈憂国〉


航空幕僚長が論文を発表して更迭された件について先週、触れた。
http://d.hatena.ne.jp/garak/20081111


そのあと、田原総一朗氏がこの件に関して言及しているコラムを見つけて読んだ。
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20081113/112209/


個人的に、考えさせられるところがあった。
以下に、引用と要約を交えて紹介しておきたい。


まず、このコラムの前段で田原氏は、今回の田母神前航空幕僚長の論文の内容について触れている。
データの裏付けに乏しく自分勝手な解釈をするという、かつての左翼の論者が用いた書き方によく似ているという。
右派陣営が昔の左翼と似た形の論理展開をする点に皮肉を見出す。


だが内容はともかくとして、同じ懸賞論文に、現役の航空自衛隊員94人が応募していたという事実。
そちらの方を田原氏は重視する。
この問題が示しているのは「組織的決起」だといい、「言論クーデター」だという。

 実は今、自衛隊、そして警察が非常にいら立っている。

雨宮処凛さんが呼びかけた「麻生首相の家を見に行こう」行動で逮捕者が出ていることを挙げ、公安にも苛立ちが高まっているという。

 田母神論文航空自衛隊のいら立ちを感じたが、それと同じものを今回の公安の不当逮捕にも感じた。
 アメリカ、ヨーロッパ、中国や韓国でも、軍人は尊敬される。街を歩いていても、電車に乗っても、敬われる。
 しかし、日本の自衛隊は、「税金ドロボー」などとも言われ、肩身の狭い思いをしている。
 彼らには、「自分たちは、雪まつりや災害に派遣されるためだけに存在しているわけではない。この国を守るために存在しているのだ」という強い思いがある。そして、不当に自分たちの存在が貶められている、軽んじられている、といういら立ちがある。
 同じように、警視庁公安にもいら立ちがある。

その指摘は、以下の文脈に接続される。

田母神論文は、言論的クーデターであったが、この言論クーデターが、遠くない将来本物のクーデターになるのではないか、という危機感がある。
 「今は、昭和一ケタの時代に似ている」と多くの人が言う。僕もそう思う。

田原氏はこの兆候を「とても危険なことだと思う」とし、警鐘を鳴らしている(ように見える)。
不況がつづいていたこと、財界では汚職が頻発していたこと、政治家はそんな財界とつるんでいたこと。
それらの戦前の状況と、ほとんど同じことが現在も起こっているではないか。
談合が当たり前に行われ、節税の名を借りた脱税行為がまかりとおっている。
食品偽装も絶えない。
自分の利益を強引に追求するだけの財界、右往左往するだけの政治、それらの対処法を裏で決めている官僚。

政・官・財の非常にだらしない癒着の構造を国民は見せ付けられているのだ。

みんなが不満を抱いている。

 しかし、不満のターゲットがない。

ではこの不満はどこへ向かうか。

 5.15事件も2.26事件も、ターゲットは政治家に向かった。多くの議員が殺された。
 今も政治家に向かう可能性もあるが、僕はメディアに向かうのではないかと思っている。
 メディアが勝手なことを書きすぎる、という不満が人々にある。

 94人もの現役自衛隊員が論文を書いているということは、組織的な行動だ。
 11日の参考人招致では、田母神さんが「自分は指導はしていない。もし俺が命令すれば1000人が書く」と言ったら、野党はそれで黙ってしまった。情けない限りだ。
 田母神さんのはったりに野党が押さえ込まれてしまった。これは危険だと思う。
 法律に違反しているということばかり聞いているが、一番の問題はそこではない。今回の騒動は確信犯による決起なのだ。この危険性に野党は気づいていない。
 実は、ここが一番危ないところなのである。


ふうん。
なるほど、そうか。


と思わないでもない。
さすが田原総一朗。当代きってのジャーナリストである。


ジャーナリストというのは、取り得るなかでおよそ最悪のオプションを選択するのが仕事、みたいなひとたちである。


「ほうっておくと、大変なことになりますよ」と医療ネタのバラエティ番組でビートたけしが言うのと同じだ。
それが仕事なんだから仕方がない。


彼らが言及する「病める現代」が、しばしば高い頻度で「戦前の状況に似て」くるのも、これまた仕方がないことなのかもしれない。
人間がもっとも恐れるのが「死」だとすると、日本国が遭遇したもっとも苛烈な体験はーー少なくとも近現代史においてはーー「敗戦」である。
なにせ国家主権を明け渡し、占領されたんだから。


田原氏が訴えている危機感を揶揄するつもりはない。
戦前の空気を知るひとは、この一連の騒動にひときわキナ臭いものを感じるのかもしれないし、論理的に検証していっても近い部分があるのかもしれない。
こう指摘することが、軍国主義の復活を牽制することに大きく貢献することもあるかもしれない。


ただ今回の騒動から、決起を念頭に置いた確信的な「もののふ」の姿が湧き上がってくるかといえば、私にはどうもそうは思えないのである。
いいかえれば「憂国の念」が微塵も感じられない。
そこが不思議なのである。


田原氏も「決起」の可能性について語りながら、民族主義ナショナリズムの方には話を振らない。
説き起こすもとになっているのは、そのレーゾンデートル(存在理由)をまともに評価されないことから自衛隊が感じている憤りや、冷戦からこちら、取り締まる相手(左翼)を失ってアイデンティティの崩壊にさらされている公安の職業人としてのプライドである。
そして、結局そこから離れずに稿を閉じている。


つまり、要は「自尊感情」の話というわけだ。


ニートや引きこもりをめぐる分析と大差ない話になっている。
自尊感情より上位にくるものーー激烈な愛国心とか、絶対者への精神的帰依とかーーが、右派陣営(の指揮官クラス)にさえないという事態を、我々は喜ぶべきか悲しむべきか。


一見、相貌を同じくしていても、やはり戦前とは違う時代が来ているのだと思う。






追記:
というようなことを考えていたら、元厚生省の事務次官宅が襲撃される事件が相次いで起きた。
http://www.asahi.com/national/update/1118/TKY200811180318.html
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/081119/crm0811190007000-n1.htm


世の中がにわかに焦臭いことになっているのは確かなようだ。