●A.A.O. -Act Against Ourselves-


Act Against AIDS」という名のイベントに先だって勉強会なるものがあった。先々月の末のことである。


HIV/AIDSをめぐる現状について、現場の方々の話を伺うという会だった。
まず最初にこの「A.A.A.」というイベント運営に携わっている事務局の方々から報告があった。
いわく、「啓蒙・啓発活動として、全国でこれだけの数の教育機関と協力することができた」、あるいは「たまたま知り合ったルーマニアHIV感染者と密な関係を取り結ぶに至り、その後、自立のための施設を造るところまで援助は進んだ」、ついては「その施設が正しく運営されていくようにということも含め、今後も引き続き連絡を取り合っていく」というような報告だった。


こういってはなんだが、株主総会の決算報告というか、営業の成果報告というか、学級委員の事務報告というか、要は「我々はこれだけのことをやった」という報告なわけである。
率直なところ、そう感じた。
致し方ない面もある。啓蒙/啓発活動の運営主体といっても、もともとは業界で音楽を売ってきた方々である。数値を上げて自分をアピールする世界を歩んで来られたのだろう。そういう方法に馴染んでいる方々が、少々立場を変えたからといって根本の行動原理から変更することなど、そう出来る話ではない。


それはそれとして、私がいだいた違和感は、その会の後半を通じて、かえって鮮明になった。
エイズによる偏見・差別から当事者を支援しようと活動している民間のボランティア団体(NPO法人)の方々の話を聞くことで、ああそうなのか、と思うところが大なりだったのだ。


まず、そのNPO法人の方々の話のメモから。

  • 1987年に日本人感染者で第1号となる方が判明したとき、マスコミがいかに拙い報道をしたか。「人権」との関係を考慮に入れる必要のある病いなのだということ。
  • 現在、医学の進歩により、必ずしも「AIDS=死病」とはいえないようになっていること。
  • クスリの投与により、相当の率で、生き長らえることが可能になっている。
  • ただし、現時点では、一生クスリを飲み続けなければならない。
  • 月に10万円を超えるといわれる薬代だが、支払額を援助する福祉制度もある。
  • HIV感染者、AIDS患者だと子供をもうけることはできないのか? そんなことはない。AIDSは遺伝する病気ではないし、日本の医療環境なら母から子への感染を断つことも不可能ではない。


そのあと、HIV感染者と発症者の、大阪における現状などに触れ、ひととおりの話が終わった。
そこで質問をしてみた。シンプルなことである。
HIV/AIDSの検査というものは、どのタイミングで行くのがいいと勧めるのがよいのか」ということが、つねづね疑問だったのである。


胃がんや肺がんや乳がんの検診なら、年齢を指標にすることも可能だろう。
糖尿や肝炎や骨粗鬆症や歯の検診でも、具体的な生活習慣を挙げ、それに該当するならという言い方ができる。
だが、HIV/AIDSに関しては、そこが難しい。何歳になったら、というものでもないし、こういう生活習慣にあるならということも言いにくい。曖昧で、微妙で、デリケートだという印象があった。


不特定多数のパートナーと性生活を営んでいるなら受診したほうがいい、という言辞にも注意が必要だと思う。
そのようなアナウンスを繰り返すことは、かえって偏見を助長することにつながりかねない。そういう危うさを孕んでいる。
「ああ、やっぱりそういうひとが罹る病気なんだよね」という予断を持たれることは正しくないし、避けたい。
いったいどういう言い方で「検診」「検査」にいざなえばよいのだろう。


この疑問に対するNPO法人の方々の答えはーーひとことでいうならーー歯切れが悪かった。
「検査については、“いつ”受けてくださいというようなことが非常に言いにくい」「できれば、まず、相談窓口に電話をかけてもらえるよう案内してもらえるといいかもしれない」ということだった。
たしかに歯切れは悪い。
だが、その分、率直という気がした。


この団体では、カウンセリングを伴うHIVの抗体検査を実施している。
利用者の便宜を考え、週末の午後に都心部で行い、その日のうちに検査結果もわかるようにしている。
その分、苦労も多いのだろう。
たとえば、去年、「大阪で2日に1人、HIV感染が増えています。」というキャンペーン*1が打たれたときなど、検査申し込みが普段の数倍になり、対応に苦慮したそうである。
なにしろ手弁当で取り組んでいる民間のボランティア活動である。
事前の電話相談の段階での啓発にも期待したい。検査するまでもない人たちが無闇に殺到するのは抑制したい。いずれもリアリズムに裏打ちされた意見である。現場の感覚としては無理もないことだと思った。


ただ、この言明については、われわれメディアの制作サイドのあいだでも戸惑いがみられた。
「で、結局、検査には行った方がいいの? どうなの? どう言ったらいいの?」
そこに明確な答えを示されなかったわけだから。


私も最初はそう感じた。
HIV/AIDSについて問題提起するイベントを告知する」ということでしか関わっていなければ、そうなるだろう。
だがこれは本来、「どう告知するか」というレベルに留まる話ではないと思う。


結局、その場は「こういう、いま聞いたような事柄を頭に入れておくのとそうでないのでは大いに違いが出てくることだから、これを忘れずに放送に臨むということでよいのではないか」という形式的なまとめが為されて、議論(らしきもの)は流れてしまった。


だが、「自分は関係がない、と思っている人間に適切な知識を持ってもらい、必要であれば検査に行ってもらう」ということを実践するのであれば、伝達するそれぞれが一度は、ある深度まで、考えておかなければならない問題ではないだろうか。
しかし考えたって、そう簡単に答えの出ることではない。


いきおい、「まずは検査を」ということになる。
「検査を受けるのが恥ずかしいという意識から変えてください」という具合になる。
あるいは「大切な人を守るために」といった文言が採用される。
それは呼びかけとしては間違っていないのだろう。
実際、そういう呼びかけでいいのだと思っていた。
メディアのこちら側からは、ほかに言いようがないのだから。


だがもう少し考えを進めてみれば、いろんなケースが思い浮かぶ。
検査に行ってセーフだったひとは、そこで思考がストップしないか。
または抗体検査の結果が一度陰性だったからといって、その10年後も、5年後も、1年後も、そのまま陰性のままかどうかはわからない。


または、検査を促すのに、ぐっと砕けていうならば、たとえば「身に覚えのあるひとは−−」という言い方も有効かと思われる。
だかこれも公器たるメディアの外ヅラには馴染みにくい。
その「身に覚え」を言い表すのが困難ということもある。
単にセックスを指すのなら、身に覚えのあるひとは数知れないだろうし、単なるセックスではないものを指すとしても、性の現場において、なにをノーマルといって、なにをノーマルでないとするのか。一概にはいえない。
個人的な事柄でありながら、食や住環境とちがって、オープンにしづらい性の問題だけに、具体的、個別的な事例に踏み込んで物を言うことに躊躇があるのは否めない。


あるいは、特定のパートナーとしか性交渉を持っていないというひとであっても、感染の危険性がゼロとはいえない。
なぜなら「相手もそうだとは限らない」からである。
残念ながら、こと人間が相手の話である。
その可能性がないとは言い切れない。
倫理的なことじゃなく、冷静に現実を考えての話。


だからいきおい「まずは検査を」ということになって、思考はループする。


結局、蒙を啓くという高踏的な立場からではカバーしきれない事柄が、ここに顔をのぞかせているといえるのではないか。
メディアの広報・告知活動の限界といってもいい。
「いつ検査に行くか」という意志決定にいざなうプロセスの背後に、この病気特有のアポリアのひとつが潜んでいる。


  *   *   *


ただひとつ、ボランティア的な取り組みを前にしたときの、判断の基準は確認できた。
私が感じた違和感とは、この個人的な基準に由来することだった。


まず運営事務局の明快ですっきりした報告があった。
それからつづけて、支援現場の前線がかかえる事情を無視できないNPO法人が、言い淀みながら話してくれた。
その話を聞きながら、私はこう思っていたのである。


いたずらに達成を誇る人間を信じるな。


未達成を吐露する人間の言葉にこそ耳を傾ける価値はある。
「まだこれだけのことしかできていない、残りは手つかずなんだ」と話す人間からこそ、信じるに足る微かな何かを聞き取ることができる。


  *   *   *


まことに有意義な勉強会だったと、ひと月経って思う。