●21世紀のラジオデイズ


ほろ酔いで書いたからか、先ほどの(昨日付、朝方の)エントリーは、ラジオマンとして、やや弱気なところの垣間見える文だったかもしれない。
その後、期せずして、内田樹さんがラジオに関したエントリーをアップされているのを発見。
ちょいと勇気を得た。

つねづね申し上げている通り、私はラジオというメディアがわりと好きである。
テレビには出ないが、ラジオには出る。
拘束時間が短いし(収録時間だけで「待ち時間」というのがない)、髪の毛ぼさぼさでパジャマ姿であっても放送上少しも困らない。
現場があまり専門職に分業化していない点もよい。
昨日来た二人はどちらもアナウンサーの方だったが、そのうち一人がMCで、一人はディレクターと録音技師を兼務。
やろうと思えば一人で全部できてしまうということである。
なにしろ制作コストが安い。
ラジオ放送のテクノロジーは「ミシン」や「こうもり傘」や「自転車」と同じで、もう改良の余地がないまで完成されている。
設備はもうできているし、そう簡単に劣化するものでもないから、その気になれば、あと50年くらいは既存の放送施設を使いのばせる。
要るのは電気代くらいである。
やろうと思えば一人で放送できる。


(中略)


名越先生に聞いた話では、テレビの制作費は以前の10分の1ほどまで下落しているそうである。
TVCMの単価も値崩れしているから、テレビをつけると消費者金融とパチンコの広告ばかりが目に付く。
電通はタクシー使用が禁止されて、営業マンは地下鉄で得意先を回っているそうである。
「テレビの時代」はおそらく終わるだろうと私は思っている。
ビジネスモデルとしてもう限界に来た。
簡単な話、「制作コストがかさばりすぎる」からである。
テレビ業界に寄食している人の数があまりに多くなりすぎのである。
これだけ多くの人間を食わせなければならないということになると、作り手の主たる関心は「何を放送するのか」ということより、「これを放送するといくらになるか」という方にシフトせざるを得ない。
ビジネスとしてはその考え方でよいのだが、メディアとしては自殺にひとしい。


(中略)


作り手が「好きなこと」を発信することがメディアの本道である。
その決断を下せないまま、今のビジネスモデルで、今のような低品質のコンテンツを流し続けていれば、ある日テレビは「業界ごと」クラッシュするだろう。
その日はそれほど遠いことのように私には思われない。
そして、そのとき再び私たちは(BBC放送に耳を傾けたフランスのレジスタンスのように)ラジオの前に集まるようになるような気がする。


ラジオの時代


「テレビの落日」という予測の方が主眼に置かれた論説ともいえるが、たしかにここで指摘されていることは大きい。
テレビのバラエティ面はYou Tubeのような小回りの利くメディアになだれこんでゆき、ドラマはペイ・パー・ビュー方式が完備したブロードバンドで配信して利益を上げる。もしくは映画に逆輸出。ニュースは、映像のついたYahoo Newsみたいなものに収斂していく。
そんな気がしないでもない。


ただ、実際のところ、ラジオのコンテンツ制作ということだけならかように少人数(なんだったらば喋り手兼ディレクター兼ミキサー)で可能なんだけれども、電波送信のインフラを維持してラジオ局を運営していくとなると、現状、個人単位では難しい問題はある。
コミュニティFMの規模のものだとしても個人では無理だろう。
なにしろ電波帯域を割り当ててもらってお上の許しのもとに行う許認可事業なので、そこには行政上の仕切りという規制も働いている。
まあ、イメージとして、『アメリカン・グラフィティ』が描いた海賊放送局としてのウルフマン・ジャック−−そう、たしかあれはイリーガルでインディペンデントなラジオ局という設定だった−−くらいなら、日々の放送はひとりで切り盛りできるかもしれない(そうだとしても、日本の商業FM局のように広域に飛ばすことを考えると難しい)。


とはいえ、いずれにせよラジオの向かうべきは、よりソリッドで、ミニマムな造りというベクトルにあるのは間違いないと思う。
いわばメディアとしてシェイプアップする方向。


2011年の地デジ移行のタイミングに合わせて、デジタルラジオなるものが構想されているのだが、これもやはり音声メディアに特化した形になるべきであって、断じてテレビモニターなど備えるべきではないのである。
ワンセグ携帯やiPodの真似をしてどうなるのか。
それよりはデジタルテクノロジーを駆使して、耳にかける補聴器くらいの大きさで、しっかりクリアな電波を、人体に影響なくキャッチできる、そんな端末を開発したほうがよほど良い。


あるいは、ケータイにラジオを組み込む……のでなく、ケータイの通信の空いた帯域を使って、常時、音声コンテンツを送り続けるようなものを模索するとか。


楽観は慎むべきだが、テレビとは逆のスタンスにこそラジオの生き延びる道はある。私もそう考えている。