●卵が、壁の煉瓦に変わるとき


文芸評論家の斎藤美奈子が、2/25付の朝日新聞の文芸批評欄で村上春樹の「壁と卵」スピーチについて触れている。

この賞を受けること自体の是非はいまは問わない

と言いつつ、

(それでもイスラエルのガザ攻撃に反対ならば受賞を拒絶すべきだったと私は思っているけどね)。

と注文をつけ、さらに、

このスピーチを聞いてふと思ったのは、こういう場合に「自分は壁の側に立つ」と表明する人がいるだろうかということだった。

と言う。

作家はもちろん、政治家だって「卵の側に立つ」というのではないか。卵の比喩はかっこいい。総論というのはなべてかっこいいのである。

とつづける。


これって、なんだろう。
ヤクザの因縁というのは言い過ぎかもしれないが、関西弁で言うところの“いちゃもん”に近いレベルの言いがかりだと思った。
ずいぶんと底意地の悪い、陰湿なケチの付け方である。
斎藤美奈子ってこんなに「かっこわるい」、つまりは「レベルの低い絡み方」をするひとなんだっけ。
書くものをきちんと読んだことはないけれど、15年くらい前に、評論の世界にこのひとが登場したときは、それなりに鮮烈なイメージがあったのだけれど。


このいちゃもんを枕にして、時評は始まる。
今月の文芸誌にも「大勢のフィクショナルな『卵』が生息している」としていくつかの小説が紹介される。
それぞれへの評価が妥当なものなのか的外れなのかは私にはわからない。
ただ、なにかの「タメにする批評」という厭な感じーー腐臭といってもいいーーが、ずっと流れている。
その腐臭の根本を知って置きたくて、時評を読みすすめてみる。


絲山秋子と広小路尚祈の2作品を取り上げたあと、どちらの小説も「基調は『ぼやき』」であるという。
「狭い世界に住み、小さなことでうじうじ悩み、小さなことで満足し、現状に不満はあっても、ぬるま湯からは出て行かないし出て行けない」「エンターテインメント小説の主人公たちが概して果敢に『壁』に立ち向かっていくのとは、ある意味、対照的」だと書かれてある。
しかし「こういう市井の人たちにも生きる場所を与えている」ところに「純文学の存在意義」がある。
「そのへんのおばちゃん、おっさんが、輝きもせず、でも人としてちゃんと扱われる」と書いてある。
その点に、斎藤美奈子は今回取り上げた「純文学小説」の意味を見出しているようだ。


なるほど、その「かっこわるさ」「ぼやき」に同調せんとして、自分も「ぼやき」気味に村上春樹に「かっこわるい」いちゃもんをつけてみようかしらん、ということなのか。


だがこの腐臭は、別にたがだか「かっこわるい」くらいのことで立ち上ってくる種類のものではない。
格好ではなく、性根か性格か根性か、あるいはそのどれもがわるくなければ臭わないたぐいのものだと思う。
具体的にいうなら、この臭いの源は「ここに弱い者がいて、その者のことを私はよく理解している」「だからこの者に替わって異議を申し立てたり、社会変革を行う資格が自分にはある」のだとする小狡いロジックに潜んでいる。
ご存じのように、「虐げられたものの側に立つことで、どこからもケチのつけられない論理の万能性を手に入れる」というこの論理こそは、旧弊なマルクス主義者やフェミニストが存分に用いてきたものである。


「卵の側に立つ」と言明することで他人の行動を揶揄することも、「壁」の連中がやってきたことなのである。
……いやいや、こう言ってしまうと、ひとを「壁」と「卵」のどちらかに分けて裁こうという、不毛な二分法に与することになってしまう。
村上春樹が言っていたのは、まさにこういう事態も含んでいたのだと思う。


エルサレム村上春樹は、たしかに「卵の側に立つ」と表明した。
だが、だからといって、「ゆえに自分は正しい」と言ったわけでは全然ない。
そのことを文芸評論家ともあろう方が、なぜ、かくも容易く見過ごすのだろう。

どれだけ壁が正しく、どれだけ卵が間違っているとしても、私は卵の側に立ちます。


村上春樹「エルサレム賞」授賞式講演全文【英語全文】
同【日本語全訳】

卵が正しいか正しくないかは問題ではないのである。
「卵は弱い>弱い者は弱いがゆえに正しい>ゆえに卵は正しい」という論を張ったら、その瞬間からその「卵の味方」は、すぐさま壁の一部として機能し始める。卵が煉瓦になるのだ。

私たちは皆、程度の差こそあれ、高く、堅固な壁に直面しています。その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。
(中略)
「システム」が私たちをつくったのではなく、私たちが「システム」をつくったのです。


「私こそが『卵』の真の味方です」と言明することで「壁」になろうとするひとが、やはり実際にいるのである。
「壁」をつくりだすことで安寧を図ろうとしてきた、我々の世界にありがちな陥穽である。


斎藤美奈子は、身をもってその陥穽の在りかを、迅速かつ明瞭に知らしめてくれた。
坑道でカナリアが鳴くのとは逆に、公道で腐臭を放つことによって。
まことに評論家の仕事というのは、労多くして敬われることの少ない汚れ仕事ではあるが、なるほど、さすがは斎藤さんである。
これをもって感謝の辞に替えることとしておこう。