●去る人を送る


2月の末をもって、職場を離れる年少の同僚がいる。FMラジオ局の番組制作から離れるのである。
ロック好きで、いいセンスをしていて、人当たりが柔らかくてーー構成をするとやや詰め込みすぎて収まりのつかなくなる傾向がないではないけれどーーガッツのある、前途の有望なディレクターだった。
もちろん辞めていくにはそれ相応の理由がある。第三者がどうこう言うことでもない。
ただ、それでも忸怩たる思いが残っている。ここに留まりたいと強く思わせることができなかったのは、こちら側の問題だから。
この場を離れる理由はそれぞれでも、この場に「留まらない理由」には、たぶんそれほどの違いはない。


そう、結局はここが、それほど魅力的な場所ではなかった(なくなった)ということなのだ。


   *  *  *


先月の広告批評の「テレビのこれから」という特集のなかにアンケート記事があった。
60人ばかりの識者、テレビ関係者らに訊いたものである。
広告屋さんや文化人の方々の答えは、概ね「最近のテレビは見ない」に集約されていて、それはそれで(その意見の妥当性も含めて)検討に値することではある。だが、ま、大多数は「テレビのことなんて他人事」と言っているのに等しい(CMディレクター中島信也氏の火を噴くような言葉を除いて)。
しかし、テレビの世界で生きてきた人たちの言葉は、やはり違う。
熱を帯びている。
なかで特に気になったのは、いくつかこういう意見が散見されたこと。
「いまのテレビは?」という問いに対しての言葉である。

(前略)
みんなが言うほどつまらなくはないよ。
つまらないのは世間がつまらないからだよ。
ただ、昔ほどおもしろい人材がテレビ業界に来なくなってるような気はします。  

(前略)
 民放のなりふりかまわぬ視聴者へ媚びた「お笑いバラエティ」よりも、世界的不況時代、公共性を生かし現代とむきあおうとしているNHKを見たくなるのは解る気がする。
 NHKの中国ものなどの海外取材番組は力作が多いが、欠けているのは、日本の地方の現実問題をみつめたもの。これを埋めているのは、民放地方局発のドキュメンタリーである。(略)ただ、これらの番組がキイ局やネットで放送されることはきわめて少ない。
 民放キイ局は巨大な宣伝媒体と期待され、視聴率の見込めない番組は編成されにくくなったためだ。番組は吉本興業(※原文=興行)系、ジャニーズ系タレントがわがもの顔。ドラマはマンガや著名小説のドラマ化が主流。ようやく局によってはオリジナル脚本家の養成発掘にのり出した。
 制作現場の一番の深刻な問題は、夢と希望をもつ若ものが、現場に集まりにくくなっていることだ。ドラマでいえばスタッフの大半は外部。局員との収入の隔りははげしい。著作権を含めて局のプロダクションと対等の力のある ビッグ(※原文=ビック)プロダクション(既に数社あるが)のさらなる育成充実が望まれる。


きわめつけに、山田太一さんがこう言っている。

映画もそうですが、若い人が働きたがる場所では、どんどんなくなっていると感じています。

山田さんは、1960年代の斜陽化していく映画界にも身を置いていた方である。20代を映画で過ごし、その映画の活力を奪っていったテレビの世界で30代、40代、50代を過ごした方がこう話している。


つまり、「若い人が働きたがる場所」であるということが、いかに大事かということである。
しかしテレビも映画もラジオも、若い人がここで働きたいと思える場所ではなくなってきている。
お三方ともそう言っている。

それがなぜ問題なのか。
ここでも山田さんの言葉を借りたい。


先週、TBSラジオの番組「ストリーム」にゲストで出演され、『ありふれた奇跡』をはじめとして、現在のドラマ全般の話をされたときの言葉である。

集中度の要るドラマだってあるんだってことを……いろんなドラマがあるんだってゆうことを、なんか編成とかなんかでね、まあ、売り方であるとかで、こう、区分けしていくっていう必要があると思うんですよ。


いま、野球でもドラマでも、なんでもかんでもコマーシャル、やたら入れますでしょ、あいだに。
ドラマなんか嘘の世界にお客さん引き込むわけですから。
引き込んだらね、15分でCM? 今度は10分でCM? 
つまり、ドラマ見せて「面白いでしょ」って言って「うん」っていうと水ぶっかける、みたいな(苦笑)。


だからね、あれひとつとったってね、実に、テレビを、作り手が文化だと思ってないですよ。
スポンサーから会社の人から全部含めてね。
まあ、現場のひとはそうじゃないと僕は思うけれども。
要するに、(テレビは)文化っていうものなんだ、テレビはすごい、ラジオもすごい、(これらは)メディアなんだ、っていうことが、少し、なくなってきてるんじゃないかな。そういう敬意みたいなものが。


ーーコマーシャルのタイミングは、バラエティだったらどこへ入れてもいいけれど、ドラマだけはね……。
そうそう、ドラマは、もっと真ん中で一回とかね、そういうくらいの配慮があっていいと思うし、それをつまり、そういう風にあってもいいんじゃないかっていう代理店やなんかのひとが、ひとりでもいるのかっていったら、いないでしょ。
僕はね、それはもう、実に野蛮なね、ひとたちだと思う。


(略)


……なんかね、見なくていいですよ、って言われてるような気がするの。


韓国が、中CMないでしょ、ドラマに。
それで僕はすごくほめたんですよ、韓国のドラマのひとに。
そしたらね、つい数日前、韓国のかたから手紙が来てね、「山田さんはずっとほめてくれてるけど、実はどうも今年あたり、中CMが入るようになりそうだ」って。「もう抵抗しきれない」というような手紙が来ましたからね。
ああ、韓国は頑張ってってほしいなって思いますね。
ストリーム2月17日
同MP3ファイル


自身の経験を踏まえても、現場の、さらに最前線の現場の人間はーーまあ「文化だ」というほどではなくてもーー少なくとも受け手に、なにがしかの影響をおよぼすかもしれないということは頭のどっかにあって、やっていると思う。
というのは、自分もかつてそのようにして、メディアから流れてくる「もの」(くれぐれも、これを簡単に「情報」とか「コンテンツ」なんて言葉に翻訳しないように)にやられたことがあるから。
しかし、前線はそうであっても、後方の支援ラインが、砂の溜まる海岸線のようにどんどんせり上がってきている気はする。
昔、肌身に沁みて、ある特定の音楽にイカレてしまったり、ラジオに麻痺させられたようなことのないひとたちーー単に流行の一環として音楽を耳にしていただけだったようなひとたちーーが、中途半端にここへ来て、十年一日のように「マーケットが」「マーケティングが」と口にして、チェック機能ばかりを強化する。自分ってものがないもんだからそれしかすることがなくて、管理ばかりに専心する。
そういうひとたちは、やってみなけりゃわからないというようなことには、まず手を出さない。
判断の根拠はーー見積もりが立つかどうか云々ということですらなく(成算はそれなりに大事だけれど)ーー、それ以前のレベル、失敗したときに言い訳ができるかどうかでしかない。
それも遅刻したときに高田文夫が使う「いやぁ、向かい風が強くって」というような笑かしてくれる言い訳でもない。通りがいいってだけの、誰でもするような、よくある言い訳=エクスキューズしか念頭にない。
なんという後ろ向き思考。この手の、あんまりなマイナス思考が平気ではびこっている。そりゃもう、現場は腐っていく。


面白いことやろう、カッコええことやってやろう。
この気構え、というかヤマっ気と、それらの気負いを放し飼いできる雰囲気、それが失われていっている。
前述の三者が言っているのはそういうことではないだろうか。


加えて思うのは、「替えが利く/利かない」ということ。
誰だって、自分が他の誰かと簡単に替えが効くと思えば、そこに留まろうとは思わない。
だが、自分以外にこれを遂行できる人間はいない、自分がやるしかないと思えば、人間はそこから容易には離れられない。
もちろんこれには両面ある。
こういう責任感が過労衰弱を呼び込むこともあるだろうし、田舎の家業を継ぐ長男なら、これがオブセッションになり、ピンで留められた虫みたいに故郷から離れられなくなるという場合だってあるだろう。
だから単に「おまえがいなけりゃ困るんだ」というだけでは駄目なのだ。
それはただその場所にいるものの都合を押しつけているだけだから。


そうではなくて、「あんたの存在は、他には取り替え不可能なんだ」というメッセージを、言葉っつらだけじゃなく、姿勢、態度、行動として伝えること。
それを相手が受け取ること。
その両方が必要なんだと思う。
場当たり的で意図が不明瞭な人材起用をしていたり、受け手とのあいだに取り結んだ制度の運用を勝手に変更していたのでは、メッセージが信用されることは到底ないだろう。


彼や彼女がいなくても、とりあえず現場はまわるかもしれない。
けれど、ひとつとして以前と同じではないのだ。
見ないふりをしていては歪みが生じる。やがてその歪みは大きなものになって現場を蝕んでいくだろう。


不在を不在として、強く認識すること。
不在に至った理由を、見送る側が想像しないでいて良いわけはない。
「自分探し」だの「幸せ探し」だのと耳ざわりのいいラベルを貼って目を逸らしていたら、遠からず、きっと誰もいなくなる。


   *  *  *


最後にそんな話もしたかったんだけれど、酒をつぐ間もなかったな。
ま、残る側の衿の正し方はどうであれ。

勧君金屈卮
満酌不須辞
花発多風雨
人生足別離
    ーー「勸酒」于武陵

コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
    ーー訳・井伏鱒二


そうではあるにしても。

さよならだけが人生ならば また来る春は何だろう
    ーー寺山修司



行く君の幸運を祈る。