●備忘日録:トレビアン・ボヘミアン


昨日、テレビによるFM特集番組のことを書いたあと、ラジオをつけたら宇多田ヒカルが喋っていた。
以前、JFL系でレギュラー番組を持っていた彼女が、ひさびさに帰ってきたという特別番組。


当時は、タメぐち全開のトークが物議を醸したところもあったようだが、いま聴くと別にそれほどの違和感はない。
こちらが馴れたところもあるだろう。
曲と歌がいいと思えるようになったら気にならなくなった(私は「DISTANCE」「Letters」で段階的に蒙を啓かれ、『ULTRA BLUE』で完全にファンになったクチ)。
あとは、10年経って、こういう喋り方の女の子が日本国中に(特にメディア環境において)増えたということでもあるのだろう。
ただ、ふと思ったのは、彼女は16くらいのときからこうで、あと一生ずっとこの喋り方なのかな(たぶんそうなんだろうな)ということ。
リテラシーにおいては森鴎外を耽読する宇多田ヒカルが、オーラルにおいては生まれ育った米語圏のマナーを採用しつづけているのは、なかなか興味深いことである。
が、それはそれとして、はたして敬語のない(といわれている)米語圏のひとたちは、十代から二十代、三十代、さらに年長へと年を取っていっても、喋り方に変化はないものなのだろうか。
なんとなく語り口のニュアンスで年齢の違いが出るものなのだろうか。
ちょっと謎である。
ネイティブな英語の遣い手の方、どなたかお教えください。


さて、その「宇多田ヒカルのトレビアン・ボヘミアン スペシャル」。
前半からゲストが出てきた。
渋谷陽一氏とピーター・バラカン氏。
宇多田ヒカル本人が、このふたりと話したいと希望したそうだ。
渋谷氏は「いま宇多田ヒカルから呼ばれて断るひとはいないでしょう」と言っていた。
おそらく「出演することにメリットを感じた」*1のだろうな。
宇多田(は敬意と愛情の証しとして敬称略)を交えたその3人で、音楽をめぐる現在の日本の状況みたいな話をしていたのだが、これはけっこう面白かった。


バラカン氏いわく、
「昔、自分がこの業界に関わりだした頃……1960年代というのは、レコード会社の規模が小さかった。なのでギャンブルができた。当たるかどうかわからないアーティストを捜してきてデビューさせるというようなことが可能だった。しかし、80年代以降、業界は大きくなりすぎた。そうなるとギャンブルめいたことはもうできない」
iPodがこれだけ広まったのは、ラジオが昔果たしていた役割を果たしていないから。その証拠」
「多種多様な曲がラジオでかからなくなった。昔は、子供の小遣いで買えるのはせいぜい月に1枚か2枚のシングルでしかなかった。だからそれ以外はラジオで聞いていた。そういう役割がラジオにはあった」


悲観に傾く宇多田&バラカン氏と、自分は決して悲観していないと言う渋谷氏(いかにも言いそうだわな)。
ほとんど曲も挟まずに1時間近く話していたように思う。
だが、長さは感じなかった。
セッティングが難しいが、鼎談というのはハマれば非常に面白い音声コンテンツになるのだということをここでも感じた。


ラジオの話題がつづいている。

*1:二十数年近く昔、関西ローカルの深夜のラジオ番組、たしか「ハイヤングイレブン」だったか「ハイヤングKYOTO」だったかでのこと。当時、気鋭の音楽評論家&日の出の勢いのロッキン・オン社代表だった渋谷陽一氏にお話を聞こう、てなことで出演交渉をしたところ、「メリットを感じられない」という理由で断られたことがあった。まああまりに身も蓋もない返答に、よほど頭に来たのだろう、その後、その番組では何度かこの件が言及されていた。私はいち中学生リスナーとして聞いていただけだったが、よく覚えている。