●二〇〇九年五月二日


あれからまだ6日しか過ぎていないのかと思う。
ずいぶん経ったような気がするけどな。
自分のなかのどこかしらの部分が、異様な速度で朽ちていっているような、そんな気もする。


いろんなひとが書いたブログを読んだ。

ネガティブなことを考えがちだった若いときの自分に、この世界に対する肯定的な見方を、くりかえし、くりかえし教えてくれたのが、彼の音楽と偉大なパフォーマンスだった。

同じことを感じる。ネガティブを突き抜けて「世界に対する肯定的な見方」に至る道を、安直ではない言葉や態度で教えてもらった。

“世代”に物を言わせて、RC時代のことばかりを語りたがるおっさんが多いけど、山口はリアルタイムで聴いていたソロの曲を挙げる。“反骨”なんて言って、あり合わせのレッテル貼りで仕切りたがるおっさんが多いけど、山口は「サラリーマン」が好きだって言う。『GROOVIN' TIME』のなかの、ラブソングが好きだって言う。

結果的に俺はロックンロールやブルースに捧げるような人生を選ばなかったけれど、そして選ばなくて良かったけれど、マイクを振り回しながら歌っている清志郎さんを観ていると、あるいはその隣で腰を屈め、目をつむってギターをストロークする仲井戸さんを観ていると、到底ガラじゃないのに、「うん、たしかにロックンロールこそ最高だ」と思えてしまいそうになるティーンエイジャーの俺がいたわけで、後にも先にも、心からそんな風に思えたのはRCに心酔していた数年間だけだった。

後段の、「わかってもらえない」ことのしんどさと「わかってもらえる」ことのすごさの話も胸にくる。

清志郎さん、梅津さん、あのひとたちがステージで見せるパワーがどこからくるのか、ずっと不思議に思っていたけれど、それはとてもシンプルなことだったのかもしれない。


清志郎について、血の通った言葉が書かれているのを見ると、いくらか気が鎮まった。


それからネットにでているニュース記事も何本も読んだ。
何が起きたのか知りたい気持ちもあることはある。
知ったところで、何が起こったのか、いまもってまったくわからないのだけれど。


テレビは、もともと見なくなっているので、ニュースは目にしなかった。
けれど、たとえば、このエントリーや、山口洋さんのこの文を読むと、なにか無性にたまらない気持ちになった。チャボさんや三宅さんのことが気になって仕方がない。
今日になってYouTubeを探してニュース映像を見た。


出棺のシーン。
仕事でお世話になっている/なったことのある、何人ものひとたちの顔を見た。
そして片山さん、梅津さん、新井田さん、三宅さん、チャボさんの姿を見た。
誰もが堪えている。
あの姿を見て、梅津さんの文章をまた読み返したら、ふさいでいる場合じゃないなと思った。


必要な時間はひとそれぞれで違う。
ただ、時間が経つとか経ってないとか、喪中とか忌中とか初七日とか四十九日とか、そんなことを俺風情が口にするのは言い訳だと思った。
生まれたての仔馬がするみたいに、使えるようになった脚から使っていくんだ。
立てるようになったら立たなきゃな。
そう思った。


  *  *  *


五月二日のことを書き留めておくことから始めてみる。


土曜日の夜はレギュラーの番組がある。
夜の12時からの生放送だ。
11時すぎ、DJ、ADと打ち合わせをしていると、先輩のディレクターに呼ばれた。
「ちょっと」
ブースからずいぶん離れたところに立って、いつになく神妙な顔つきである。
はい?
立ち上がろうとしたとき、クラッシュの「ポリス・オン・マイ・バック」が鳴った。私の携帯の着信音。
中腰になりながらテーブルの上の携帯に手をやると、手招きしていた先輩が言った。
「あ、それかもしれない。ーーだろ?」
先輩がいうとおりの名前がディスプレイに表示されていた。
「たぶん同じ話だ。出て。いいから」
一礼して、携帯を左手に持ち替えた。


局の編成プロデューサーからだった。
清志郎さんに絡んだ企画ごとをやるときはいつも先頭に立って複雑な交渉事をさばいてくれる。同い年のプロデューサーからの着信だった。
23:22。


生放送の直前に入ってくる電話というのは、だいたいがあまりいい報せではない。
直前になにか話そうとしていた、先輩ディレクターの表情も気になった。


数秒のうちに理解が及んだのはそれだけのこと。
でもそれで充分といえば充分だった。
通話ボタンを押す頃には、すでに俺の中には悪い予感が充満していた。
ああ、きっと清志郎さんに、なにかよくないことが起きたんだろうな。


その瞬間、たぶん俺は自分の感情に蓋をしたのだと思う。
右脳と左脳の機能の俗説でいうなら右脳を閉じて、左脳だけでこのあとの2時間の番組を乗り切ることに決めたのだ。


DJ(ちわきまゆみ氏)と相談し、番組の冒頭で「忌野清志郎逝去」のニュースを伝えた。
そのあと、局のこの春のキャンペーンソング「Oh! RADIO」をかけた。
先のプロデューサーの依頼を受けて、清志郎さんが書き下ろしてくれた曲だ。


曲のあとはそのままCMに下りて、CM明けに、通常の番組の前枠をもってきた。
その夜は、月に一度の割で恒例としているリクエスト企画の日にあたっていたので、「いつもどおりユニークなリクエストを待っていること」、「清志郎ナンバーへのリクエストもあれば応えていきたい」、と伝えた。


我々と同じように、ついさっき清志郎の訃報に接したばかりというリスナーから、放送開始の時点でもすでに数通のリクエストが寄せられていた。
テレビのニュースで知り、急いでラジオをつけて802に合わせたという声もあった。


その後、午前2時までのオンエア中も、清志郎を悼む声は絶えることがなかった。
メッセージの量は、ざっとみただけでも、普段のオールリクエスト企画の3倍に達した。


あとになって思えば、全曲を「清志郎特集」として構成してもよかったと思う。そうすべきだったと思う。
けれど俺には無理だった。
ひょっとして傍目には冷静にみえたかもしれないけれど、内心は途轍もなく動転していた。
元来、構成や演出というのは、「こうしたほうがもっと伝わるぜ」とか「こっちのほうがグッとくるだろう。どうだい、そそられるだろう」という意図や狙いが根っこにある行為である。
いってみれば、計算である。「謀」と書いて「はかりごと」のたぐいである。
ある程度、クールでないとできない種類の作業だ。
(蛇足だが、だから構成や演出は、ある意味、誰だってできる。
四則計算と植木算、鶴亀算ができるなら、誰にでもできる。
芸術ではないから。
ただし、その分、正気を失うと、遂行するのは難しい作業かもしれない)


進行台本にのっとって−−リクエストナイトだからほとんど白紙の状態なのだが、一応、告知が必要な事柄などは前もって書き入れてある−−、そこに何曲か、清志郎にちなんだリクエストを織り交ぜて進行すること。
そこまでだった。
情けないが、感情に蓋をしていても、それだけでもう限界だったのだ。


結局、その夜、清志郎さんに関連した曲でオンエアできたリクエストナンバーは、8曲。


「雨あがりの夜空に」と「トランジスタ・ラジオ」は、私の独断でそれぞれ『RHAPSODY Naked』、『the TEARS OF a CLOWN』からのライブバージョンをかけた。


俺にできたのはそれくらいのこと。
もちろん何ができると思っているわけではないが、もっとやりようがあったのではないかと煩悶する。
というのは、ほんとうではない。
そんな、ラジオ屋としての忸怩たる思いに駆られるのは、まだずいぶんあとになってからのことなのだ。
そのときは、生放送を終えることができた、それだけでへとへとになっていた。


ちわきさんを送り出し、残りの雑用を片付け、局を出た。
午前3時をまわっていた。
長い時間が流れた気がしたが、報せを受けてからまだ4時間も経っていない。


とりかえしのつかないことが起きたんだなという感覚が足元からせり上がってくる。
家への道を急いだが、ちっとも進んでいる気がしない。
実際、まっすぐ上手く歩くことができないのだった。