●二〇〇九年五月九日


昨日、5月9日の朝7時すぎに新大阪を出るのぞみに乗って東京へ向かった。
おそろしいほどの快晴。
ひさしぶりに見る富士山。


10時半に乃木坂の駅を上がると、すでに葬儀所から表へ長い列ができていた。
青山トンネルの近くまで延びている。
TVカメラを抱えた一団が走りすぎていったりもする。
その列の横をすりぬけ、青山葬儀所に入る。


受付で手続きを終えたあとは、会場のすぐ外に設けられた大きなテントの一隅で待つ。
このなかに設けられたモニター画面から、会場内の様子を見ることができる。


正午から葬儀(またの名を“青山ロックンロールショー”)が始まった。


一応、関係者のハシクレであるからには、清志郎さんの不在という事実を受け入れなければならない。
半分は、そのためにここへ来たようなものである。
だが身体のどこかがそれを拒否している。
会場に着いたときから、そういうこわばった感覚にとらわれていた。
関係者サークルのなかにいるということに、相当な違和感をおぼえていた。


黙祷のあいだ、後ろに並ぶファンの、おそらくは同年代とおぼしき男たちから、「キヨシロー!」と声が上がる。
どれも絞り出すような声だ。
表に出て、“ただのファン”として行列に並び直すべきじゃないかと何度も思った。


だから、甲本ヒロトが弔辞を読んでくれたときは、ほんとうに助けられたような気がした。
タチの良いものも悪いものも含めて−−冗談が好きだったキヨシロー。
俺たちと同じようにロックンロールが好きだったキヨシロー。
でも圧倒的に真似のできない存在だったキヨシロー。
そんなあのひとへの思いを、ハチャメチャにきちんとしたロックンロールなやり方で、革ジャン姿のヒロトが伝えてくれた。


甲本ヒロト氏・弔辞


感謝というのは少し違うような気もするけど、でもほかにふさわしい言葉が見つからない。
俺はヒロトに、深く深く感謝した。
そうだよな、立っている場所や着ている服なんかじゃないよな。


祭壇がある会場に入る手前に、清志郎の大きなパネルが飾られていた。
「3月20日」の日付の入ったサインがしてある。




そこからあとのことは、まだ、どうにも書くことができない。




   *   *   *




ただ、私が参列した式は−−「葬儀ではない、“ロックンロールショー”なんだ」という意見も含めて−−あれはやっぱりパブリックなものだったんだと思う。
なんというか、“パブリックドメインとしての清志郎”を弔う式。


だから、あとは個人的な弔いをしなくちゃな、と思う。


「心のなかに生きてる」とか「忘れられたとき、ひとはほんとうに死ぬのだ」とか、それはそれで本当の思いなんだろうけれど、しかるべき年月をくぐらないと力を持たないような言葉をすぐに口にすることは、私にはできないので。


この一週間、「ヒッピーに捧ぐ」や「ぼくの自転車のうしろに乗りなよ」や「甲州街道はもう秋なのさ」や「指輪をはめたい」や「君を呼んだのに」や「まぼろし」や「マリコ」や「夢を見た」や「NAUGHTY BOY」や「空がまた暗くなる」や「メルトダウン」や「口笛」や「500マイル」や「誰も知らない」や「約束」を何度も何度も何度も聴いて、私は私で個人的な弔いをしてきた。
これからもしていくんだろうと思う。
そうやって、干し煉瓦を積み上げてつくった塹壕の壁の隙間から、枯れ草を引っこ抜くみたいにして言葉を探している。
いつまでかかる作業かは知らない。




   *   *   *




2時すぎには会場をあとにして、深夜の番組に備えて大阪に戻ったので、そのあとの様子については知らずにいた。
だが夜の7時をすぎた頃、その時分になっても、青山葬儀所にやってくるファンの列がまったく途切れていないことを、ネットのニュースで知った。


葬儀所を囲み、長蛇の列を成して並んだファンが、3時間、4時間、5時間かけて会場に移動してゆく。
それはまるで日比谷の野音のライブか、ロックフェスのような雰囲気だったのだという。
あとになってその話を聞いたとき、とても嬉しかった。
そうか、そうかと、えらく嬉しかった。


ワイドショーがどれだけ的外れなことを言っていようが気にしない。
付き合いでやってきたカンケー者が雑談を止めなくてもカンケーない。
忌野清志郎は、やっぱりライブなんだ。
ライブに足を運んでくる連中のためにジャンプする、バンドマンだったんだなと思ったんだ。


ジャンプ、ジョニー・ブルー、ジャンプ。


アンコールが終わっても、歌はまだ響いてる。