●誰かさんだけのものではなく


没後、つぎつぎと出版されている清志郎本。


表紙は、ミュージックマガジン増刊のものが絶品。
おおくぼひさこさんによるポートレイトは美しい。
やんちゃ坊主をなだめてすかして慈しむような視線がなんともいえない。


内容に関しては、そうだなあ。
一部の評論家の人たちには、「清志郎について語ることで自分の思うところを示そう」という自己顕示が見え隠れしている場合がある。
それはもう、そういう立場の人にとっては業のようなものかもしれず、かくいう自分もその陥穽から自由であるとは言い難い。
音楽誌の特集や増刊には、そういう「エグみ」みたいなものがどうしても出てくる(文芸誌や思想誌だってそれは同じか)。


その点、TV Bros.の臨時増刊はいい。
目先の自己顕示からは解放されている。
あえてここで自己表現する必要のないひとたちが書いているから、その分、澄んでいる。


1999年に掲載された「爆笑問題太田光との対談」記事は、衆院選が迫ったいまこそ再読されるべきものだし、
「瀕死の双六問屋」の、書籍化されていない最後の18話分(第44話から最終・第61話まで)が採録されているのもすばらしい。
(四角殿、アフロ之助殿、グッジョブでござる)


畑違いのひとのほうが、しがらみや余計な配慮や思い上がりがない分、ひょいひょいっと軽やかな手つきで扱える。
結果として、露出やら色温度なんかを気にせず撮ったアマチュアの写真のほうがシンプルでよかったりするように、心に残るものになる、そういうことがあるのかもしれない。


そういえば、同じく「畑違い」ってことでいえば、これも。
b * p (ビーピー) 8 2009年 09月号 [雑誌]
b*p vol.8(9月号)が村上春樹特集を組んでいて、これがなかなか面白かった。
マニアックなミーハー心が横溢している。
表紙&冒頭からして、駒沢公園(?)の芝生や階段で春樹本を読んでいる菊地凛子のグラビアである。
これを眺めていると、直子=菊地凛子というのも、ま、うなずけっか、という気になってきた。


内田樹教授の「1Q49-2009 村上春樹クロニクル」講義。》も必読。
聴き手もよかったんだろうなあ。
冴えに冴えた練読み*1と知見の数々が披露されている。


《ハルキの次に読む本、聴く音楽、はじめる仕事。》の坪内祐三もいい。


と、こういう2つの雑誌に触れたりすると、おのおのの雑誌が専門とする得意分野に特化していくのって、必ずしも重要じゃないという気がする。
マーケティング論者は、「雑誌は、顧客をしっかりとキャッチできるよう、セグメント化していかないと未来がない」てなことをいうけれど、それってほんとにそうなのか。
ペイしていく、売り上げを確保していくっていう、営業寄りの目線ではそうかもしれない。
けれど、蛸壺化した専門性ばかりが雑誌の面白さじゃないはずだ。
別のジャンル、分野にスライドしていくのも雑誌の醍醐味だろう。
なんてったって「雑誌」なんだから。


密室みたいな雑誌もいいんだけれど、いまは開放されたものを読みたい。
そういう気分なんだろう。
軸足はしっかり地面に付けつつピボットする真反対の自分、そうやってスイングする身体が見る360度の世界のパノラマ。
そういうものを見たい。


   *  *  *


最後になったけれど、忌野清志郎著(山崎浩一 取材・構成)による「ロックで独立する方法」。
これはたぶん、数ある清志郎本のなかでもいちばん熱い一冊。
ポジティブで、覚悟と勇気の有無を問う本だ。


それだけに、序文で山崎浩一が悔いているところは痛切である。
間に合わなかったという思いは半端なものじゃないだろう。


それでも、なんだって無駄ってことはないんだな。
やらないよりは、やったほうがいいんだな。


読み切ったあとは、中年に達した男でもふっと武装を解除して、いつのまにかそんな風に思っている。
これはそういう本である。


ロックで独立する方法

*1:いま、勝手に作った単語。深読みよりも能動性が高い。自分から働きかけていく読みであり、こねくり回し度数も高い。半分妄想と呼ばれてもよしとするのが、練り読み。