●巴里の日本人と政権交代


今日から、UNIQLOCK巴里篇にチェンジ(please click right window!!!→)。



絵になるなあ。
うっかりすると、ぼーっと眺めてるうちにエラい時間経っとるね。
真行寺君枝似の娘がひとり、髪なびかせながら踊るシークエンスとか、いいんだよなあ。
日暮れどきの映像が、どこか「木村伊兵衛のパリ」を思わせるあたりもいい。


で、それはそれとして政権は民主党にチェンジ。


政権与党の座から自民党を追い落とすことはできたわけだけれど、意気揚々とした気分からほど遠いのは何故だろう。


振り子が振れすぎた感があるから?
調子に乗られちゃ困るな、と思っているから?


結果が出てみて、まず感じたのは「そうか、小選挙区制って、良くて二択ってだけのことか」ってこと。
それを、「いや、だって元々五択も六択もなかったやん」「一択よかマシでしょ」と思えるかどうか。
……思えないのは、やっぱり政治になんかしら期待してるところ大なりってことなのかなあ。


政権交代といえば、我々の年頃では80年代初めのフランスが思い浮かぶ。
1981年に左派のミッテランが大統領に就任した、あのときのフランス。


気になって調べてみたところ、フランソワ・ミッテランが大統領の座に就くまでの道のりは簡単なものではなかったようだ。

第一次大戦の最中、1916年に生まれたミッテランは、10代の頃は王党派に属し、極右活動に参加。
第二次大戦では従軍し独軍の捕虜となる。
辛くも脱走し、仏に帰還してからは、ヴィシー親独政府のもとで熱心に働き、認められる。


だが、そこでなにがあったか、43年末には対独レジスタンス活動に軸足を移す。
そのまま戦後を迎え、閣僚を歴任。
アルジェリア戦争では独立運動の鎮圧に動く。


彼が玉座の周りに姿を見せるのは、65年。
この年の大統領選では、左派統一候補としてシャルル・ド・ゴールと闘う。善戦するも、決戦投票の末、敗れる。
71年には社会党の第一書記に選任。
74年の大統領選でも決選投票に持ち込むが、ヴァレリー・ジスカールデスタンに僅差で惜敗。
そして二度目の対決となった81年、これを制して、大統領の座に着いた。


就任後、社会主義的な政策を実施するも、インフレの進行、失業者の増加を受け、わずか1年で自由主義に転換。
その後、2期14年にわたってフランスを率いて、95年に退任。
8ヶ月後、96年1月に前立腺癌で死去。


こうして略歴を眺めているだけでも、相当な闇を感じさせる。
良くも悪くも興味深い。ミッテラン


ちなみにこの頃というのは、英国でサッチャーが(79年)、米国でレーガンが(80年)、日本で中曽根が首相の座に(82年)就き、世界的に保守の流れができあがっていきつつあった時期である。
その80年代初頭に、左派政権が誕生したフランスの雰囲気ってどうだったんだろう?


さて、長い枕になったが、ここで私がなんとなく符合するものを感じたのは、ミッテランが最初に大統領選に挑んだ65年から、ついに当選を勝ち取る81年までの年数である。
その間、16年。
かたや本邦にとっては、小沢一郎が牽引して小選挙区制を導入してから初の政権交代までが15年だった。
ま、そのくらいの年数は必要ってことなのか。
それとも小沢一郎は日本のミッテランなのか?


さらに話は戻って、UNIQLOCK
パリを借景に日本人が、こんなして踊って絵になるときが来ようとは。
夕暮れのエッフェル塔の前でくるくる回るショットとか、とてもいい。
一度、太陽の塔の前でも踊ってほしい。
ともかく、鳩山政権が誇れるものになるかどうかは疑問だけど、UNIQLOCKは自慢していいと思う。
去年、カンヌでも賞取ったことだし。


UNIQLOCKに喚起されて日仏における政権交代の違い、てなことが気になった。
ミッテランのことは、もっと追っかけてみよう。