●震災のこと/JUMP
あれから15年が経ったとは、なかなか思えない。
思えないけれど、たしかにそれだけの年月が流れたのだろう。
思うところあって、5年前に書いた文章を再録する。
その頃ずっと、「清志郎の曲が自分に作用した何事か」を書き連ねるということを継続してやっていた。
「LuckyRaccoon」という雑誌に連載していたのだ。
これは2004年の暮れに出た号に載せてもらった文。
少し加筆してある。
ディスプレイ上で読みやすいように改行等を増やし、分量的に割愛せざるを得なかった部分を加えた。
2008年に単行本『忌野地図』としてまとめた際のものとも、また違ったバージョンになっている。
「JUMP」
神戸で地震が起きて半年ばかり経った頃、西宮の大学に通っていたときの友人と、東京の寿司屋に入ったことがある。我々が関西の出身だということはおそらく会話から知れるのだろう。店の大将との世間話も自然とその方向へ流れていく。
「で、お客さん、震災のほうは、どうだったんですか?」
友人と一瞬顔を見合わせる。それからもごもごと答える。
いやあ、壁にひびが入ったくらいで。
ええ、おかげさまで身内は無事で。
大将もそれ以外の答えは想像してないんだろう。してたら訊けないと思う。
「そうですかい、そりゃあよかった。いえね、あたしもこっちに居て何もできないでしょ、ぐじぐじしてたんだ最初は。テレビ見てるっきゃないんだもん。でもね、こっちはここで商売やって、いくらかその、義援金? ……とかって形でね、ひと肌脱げりゃそれでいいんだ、それしかないよって思うことにしてさ……」
話を合わせるのが大人だと思うから、そりゃそうですよ、とか言ってみる。でももう鮨の味なんて分からない。
大将に悪気のないことはわかってる。1995年1月17日、俺もその友人も、あの街にいなかった。腹を立てる筋合いなんてない。たかが鮨が不味くなるくらいなんだってんだ。そう思って酒でごまかした。
震災の話をするのはむつかしい。どこか天に唾するようなところがある。自分を責めるか慰めるか、そうでなければ「人災」という面を強調して、誰かや何かを糾弾するか。なんにしたって虚しさはつきまとう。
被災した者、そうでない者。
一方は「話したってどうせ理解されない」とあきらめ、一方は「聞いたってどうせ体験には及ばない」とあきらめる。
メディアが取り上げるような形で「語り継がれて」いくことはあっても、普通に震災の話をする機会は意外に少ない。だから、聞く人が聞けばこの話も寿司屋の大将の言い分と大差ないのかもしれないが、それは承知の上で話してみる。
* * *
当時、俺はバイク便の仕事をしながら東京で暮していたのだけれど、地震の翌日には京都にいた。あるコンビニチェーンが弁当の配送にバイクを動員することを思いついたせいだ。京都はほとんど被害を受けなかったはずだけど、道路事情かシェア争いか、なにか理由があったのだろう。
泊まりは全日空ホテル。昼間は牧歌的とさえいえる郊外の景色のなかでの配達。テレビでは連日の震災報道。夜になると一部屋に集まって、軽口を叩きながら花札に興じる同僚たち。
俺はいったいなにをやってるんだか。
妙なイライラが溜まっていった。
それでも週末には解放されそうだったので大阪の彼女に電話してみた。その頃、東と西に離れてつきあっていたのだ。
土曜か日曜に会えんかな?
「ラジオでヒロさんが言ってた『西宮から歩けるとこまで歩く』ゆうのに行こう思てるからあかん」
ひとことでバッサリである。
ボランティアのイベント――阪急電車の、西宮北口の駅から先の、不通になっている沿線の道を救援物資を持って歩く――に参加するというのだ。
アイタタタ。
そのときまで、俺にとっては震災のことよりも「日頃の遠距離の埋め合わせに彼女と会う」ことのほうが優先事項だったのである。
それを当の相手にうっちゃられてたんじゃあ世話はない。我ながら哀しいやら情けないやら。思うに、そのあたりからイライラの形がいくらかはっきりしていったのだ。
大阪の実家に一泊して翌日、西へ向かった。地震発生から七日目。冬晴れの日だった。
尼崎、西宮、芦屋、神戸……。
東灘区まで来ると、阪神高速の高架が崩れている場所に出た。恐竜が骨だけになって横たわっているようなその眺め。
身震いはあった。けれど現実感がない。
遠くからヘリの音がパラパラパラと響いている。
……ヤバいと思った。想像の埒外にあるこの光景を現実として受け取るだけの取っかかりが、自分にはなにもない。このまま進んでもこれじゃあ仕方がないだろう。
避難所になっている近くの小学校に飛び込んで、手伝いを申し出た。なにかやらないと呑み込まれてしまう気がしたのだ。
実際、そこには山ほど仕事があった。
学内および学外にいる被災者への食事の配給、飲み水の確保、その水回りの補強、援助物資の整理、管理。避難してきた人々の意見調整。
作業に追われているうちに、毎日あっという間に日が暮れた。バイク便の装束で来ていたので寒さ知らずである。夜はその格好で寝転がっていればよかった。
集まってきているのは、ほとんどが十代か二十代の人間だった。
センター試験を終えたばかりの浪人生、仕事を辞めて農業をやるための準備に帰郷してきた青年、北海道をバイクで走るのが趣味という元自衛官、首の裏にカイロを貼ると血流ごと温まるから試してみればと教えてくれた医学生の女性。実にいろいろだった。
校舎のなかの一室は臨時の霊安室になっていた。そこを通るときは黙礼した。
みんな被害のことは口に出さず、とにかくパタパタと走り回ってよく働いていたと思う。逆に、食事や物資の配給のときに喰ってかかるような態度を取るのは、いい年をした大人であることが多かった。無理もない。大人たちは生活を抱えて忙しいのだ。そう思って気を鎮めることも、ないではなかった。
そこで会った人たち、遭遇した出来事について話すには、あまりに紙幅が足りない。覚悟も足りない。だからせめてひとつ、ふたつ、印象的なエピソードを書きとめておきたい。
ふたりの少年と組んで夜回りをしていたときのことだ。
待機中に、そのうちのひとり、M君と話し込む機会があった。彼は前の年の九月に、通っていた高校を中退したのだという。
「毎日暇なんです。せやからここにも長うおれるんです」
相棒のほうは?
「あいつはえらいんです。ちゃんと学校行きよる。いまはボランティア行くゆうたら欠席扱いにはならんそうやけど」
そう言って笑う。
年齢はひと回り違う我々だったが、妙に通じ合うものがあった。そのうちに、修学旅行の夜にするような話になった。
「カノジョとかいるんスか?」
いてるよ。
「かわいいですか?」
そりゃまあ、主観的には。
「シュカンて?」
あ、俺から見ればってこと。
「ああ、そんなん。……あの、○○ちゃんてわかります?」
手伝いに来てるコ?
「はい」
今日、来てた?
「来てました」
もしかしてあの、アムロナミエにちょっと似てる?
「そうです」
おー。
「……かわいいことないですか?」
かわいいかわいい。
「いいっスよねぇー、あのコ」
彼なりの屈託はあったと思う。
大勢の人間に不幸をもたらす出来事が起こった。それは人間の半端な想像を超える圧倒的な出来事でもあった。おかげで、同世代の人間が集まる場にまた居合わせることになった。それは日常を離れた、ある意味で高揚をもたらす時間でもある。同時に、ドロップアウトした自分に直面する場所でもある。そういう、何重にも屈折した思いはあっただろう。
それでも、薄暗い電球に照らされながら好きな女の子のことを話すM少年には、ちょっとグッと来るものがあった。ひとことでいうなら、そう、「生命力」みたいなものを感じたのだ。
辺り一面、瓦礫と化した街の真ん中で、それでも可愛い女の子に心動いてしまう少年。それをよしとできなければ、人間ってものも肯定できないんじゃないか。そんな気がした。
その学校――本山第三小学校――に居着いてからの一週間は、瞬く間に過ぎていった。仕事を休むのもそろそろ限界だった。つまらない大人の一員である私は、自分の日常に戻らなければならない。
日曜の夜、単車を押して学校を離れた。
300メートルばかり離れてからエンジンをかけ、なるべく広い道路を探して慎重に走った。まだ10時過ぎだというのに、人の気配がまったくしない。冥府から戻るオルフェウスになったような気がした。
直線距離にして18キロ。そのあいだにあったのは、どんな国境よりも激しいギャップ。大阪の市内に入ったとき、ふいにどこかの家の味噌汁が匂った。
* * *
実家にたどりついて、いの一番に考えたのは風呂に入ることだった。一週間ぶりの風呂である。ユニットバスのカランをひねると、すぐに温かい湯が出てきた。なんだか奇跡みたいだな。
蛇口をぐるりと回して、湯船に湯を注ぐ。廊下をまたいで部屋に戻る。靴下を脱ぐ。
そのときだった。
カーペットの上にバラバラバラ、バラバラバラバラと、なにかが落ちた。
1センチちょっとの、黒くて細長いもの。
ビクリとした。
虫かなにかだろうか?
そうっと腰をかがめてよく見てみた。
それは大量のすね毛だった。
そういえば神戸にいるあいだ、靴下を脱ぐことが一度もなかった。ずっとアウトドア用のタイツの裾先を靴下に押し込んで、靴を履いたまま過ごしていた。その一週間のあいだに、驚くほどの毛がすねから抜けて溜まっていたのだ。
なあんや、すね毛か。
気が抜けた。
すね毛かぁ。頭のほうの毛やなくてよかったなぁ。
けれど軽口も、浮かびかけた苦笑いもすぐに引っ込んだ。替わりに冷たい汗が出てきた。すね毛たちを一本一本、つまみあげて集めるうちに妙な想念にとらわれた。討ち死にでもしたみたいに倒れている毛たち。これはなんだ、まるで大量虐殺のあとみたいじゃないか。
いましがた後にしてきた場所で起きたこと。いまも続いていること。
それがどれほど尋常でないことなのか、抜けたすね毛が教えてくれているように思えた。初めて恐怖を感じた。頭ではなく身体で。
シャワーに打たれながら、西の方に頭を下げた。偽善的なふるまいの上塗りだと思ったが、そうせずにいられなかった。水の分量を上げていくと、流れてくる湯は冷んやりとした水に変わった。
馬鹿げてる。まったく馬鹿げてる。あそこには水すら満足にないのだ。
結局、湯に戻して、俺は頭を洗った。
* * *
このあいだ出た清志郎の新曲「JUMP」。違うのかもしれないけど、震災十年の歌でもあると俺は勝手に思っている。
「夜から朝に変わる いつもの時間に/世界はふと考え込んで 朝日が出遅れた」
「JUMP 夜が落ちてくるその前に/JUMP もう一度 高くJUMPするよ」
天に唾する代わりに、それならば高く跳躍してみせる。そういう歌だと受け取った。
M少年は、アムロ似の彼女に思いを伝えることはできただろうか。
「JUMP」は2004年11月にリリースされた最新マキシシングルのリードトラック。
忌野清志郎ならではの王道Rock'n' Roll炸裂のナンバーである。
これとは別に、阪神・淡路大震災に直接言及した曲としては、ザ・タイマーズの「ヘリコプター」「サヨナラはしない」「スィート・ヒッチ・ハイカー」などがある。
話すのと同様、震災のことを歌うのは難しい。
だが、うまくいこうがいくまいが清志郎はチャレンジしつづけてきた。
上記の3曲はどれも現在入手困難だが、機会があればぜひ聴いてみてほしい。