●つまんないとおもしろいのあいだにある静かな部屋


試写会で『クワイエットルームにようこそ』を観る。松尾スズキ監督の第2作である。


いい映画だった。哀しい映画だった。
といっても非力な映画ではない。重みも力もある、ボディブロウのように効いてくる映画だった。


回想として出てくる主人公(とその彼氏)の部屋と、精神病棟。舞台をほぼその2つに限ったこと。
病棟の患者たちを演じる女優陣の、個性豊かな動きと表情を駆使した確かな芝居。
ダメ男を演じさせたら、目下のところほとんど敵なしの宮藤官九郎のはまり具合。


などなど、秀でた部分はいくつも数えることができる。
なかでも印象に残るのは大竹しのぶ蒼井優だろう。
特に、蒼井優が演じた少女のほうが役柄としては難しいと思う。
だが彼女は、あの、世の中の光と闇のかなりの部分を吸い込んでしまうような眼で多くを語っていた。
物語の後段、彼女(ミキという役柄)が主人公(内田有紀が演じる明日香という女性)に囁く、ある理由。
狭い試写会場の最前列という場所でなければ俺は泣いてた。


何人かの女ともだちの顔が頭をよぎった。


女版『今夜、すべてのバーで』みたいだなとも思ったし(もちろん褒めているのです)、
金属製みたいに冷酷なナース江口(りょう、好演)と主人公のやりとりには、一瞬、『カッコーの巣の上で』を彷彿とさせられたし、
明日香とミキが同じ言葉を贈り合う交感の場面では、カート・ヴォネガットJr.の『タイタンの妖女』を思い出したりもした。
かの小説に出てくる不思議な生物「ハーモニウム」は、たぶんに自足的な生き物ながら、なぜか他者と交信するテレパシー能力を有している。といってもそれは、ほとんどふたつのメッセージでしかないのだが。

最初のメッセージは第二のそれに対する自動的応答で、第二のそれは最初のそれに対する自動的応答である。
最初のそれは、「ボクハココニイル、ココニイル、ココニイル」
第二のそれは、「キミガソコニイテヨカッタ、ヨカッタ、ヨカッタ」


此処にいたり、いなかったりする、何人かの女ともだちの顔が頭をよぎった。
映画が終盤に向かうにつれ、なにがフツーで、なにがフツーでないのか、そういうことの境界がどんどん曖昧になってぼやけてくる。


まるでフツーとかほとんどビョーキとか、ありえるーとかありえなーいとか、キモいーとかキモくないーとか、嘘つきとかやさしいとか、嫌な奴とかいい人とか、空気が読めるとか読めないとか(そもそも空気は読むものか? 吐いて吸えりゃそれでいいんじゃないのか?)、つまんないとかおもしろいとか、これでもかというくらいに二分法で成り立ってしまっている世の中では、ほとんどそのどっちかひとつにしか居場所はないように思える。
けどそのツイタテは薄いように見えても実はけっこう厚みがあるものだ。で、なぁんだ、コレとコレのあいだって、けっこう幅のあるものなんじゃんと思えれば、やりようというか生きようというのは、まだいくらかあったりはする。
クワイエットルームに行って還って来たら、ちょっとそういうことが分かったりするのかもしれない。
もちろん分かるだけに(周りがそういうことを分からないだけに)つらいということもあって、だからまたクワイエットルームに戻っていくことも多いのだろうけれど。


観る前と観た後とでは、世の中の景色がちがって見える、そういう映画だった。


試写会場のあるビルの階下の本屋で、原作の文庫本を探した。
途中で『ヨーガ』の本が目についたので、こういうものを買うのは初めてだが一緒にレジに出してみた。
なぜだか、とにかく生きてぇなぁという気がしたのである。
考え方の方向としては、まるで間違っているように思うけれども。






クワイエットルームにようこそ (文春文庫) ハタヨーガ―カラービジュアル版