●俳句とは?


今朝の朝日新聞の土曜版(赤い字でbeと書いてる方)に、「夏目漱石寺田寅彦」の話が載っていた。
熊本の旧制五高で教えていた漱石の自宅に、生徒だった寺田寅彦が訪ねたときの話。


「俳句とは一体どんなものですか?」
漱石は、ごまかさず照れもせず、まじめにこう答えたという。
「俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである」
「花が散って雪のようだ、といったような常套な描写を月並という」。こういう句はよくない。
「秋風や白木の弓につる張らん、といったような句は……よい句である」
(「夏目漱石先生の追憶」http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2472_9315.html


これを聞いた寺田は大いに感銘を受け、死ぬまで俳句を作り続けた、というコラム(茨城大准教授・磯田道史氏)だった。


「教師」という通しタイトルの記事の第1回目であるところをみると、教え、教えられる関係についてのなにがしかを、この問答に見い出そうという狙いがあるのだろう。
答えの内容のシンプルさ、揺るぎなさもさることながら、まっすぐに答えようとする漱石の態度に見るべきところは多い。
本質的な事柄を問われて、こう即答するのは容易ではないだろう。
ただ、こうも思う。
訊く側の、この例でいえば寺田寅彦の、態度や姿勢はどうだろうと思うのだ。


「○○とはどういうものですか?」「○○とはなんですか?」と訊いてくる人間はいまも多い。
多くは、答えを急ぐあまり熟慮を欠いた問い掛けになっている。
電子レンジに冷凍食品を入れるみたいに、ボタンを押せば答えが出てくるのが当たり前と思っているのが、我々の生きている環境である。


コラムによれば、このとき、寺田が漱石を訪ねてきたのは「試験をしくじった友人を落第させないで」という陳情のためだという。
門前払いを食わせる教師も多いなか、漱石は快く会い、話を聞いた。
だがその訴えに関してはなにも言わなかったという。
寺田は仕方なくそのまま帰ろうとしたところで、勇気を出し、訊ねてみたのが、「俳句とは?」という問いなのだ。


寺田の勇気が漱石の心を動かしたというようなことではないだろう。
「友人を落第させないで」というのは、気持ちは分かるにせよ、諾える相談ではない。
(そういう陳情に行ってくれる友人関係があるというのも、まあ明治から元号をふたつまたいだ平成の世には信じ難いことではあるが)
だが、真率に知について(学問について、芸術について、世の中について、その他いろいろ)訊ねることが明治の学徒にはあったのだ。
そしてそういう言葉には、やはり真率に答えるという態度を漱石が持っていた、ということだろう。


時間がもったいないから早く教えてよ、あんた教えんのが仕事なんでしょ、というような態度で臨むかぎり、学べることは知れている。
それは間違いないような気がする。
もちろん、おまえら勉強すんのが仕事なんだからな、さっさとこれ覚えろ、という態度で臨むかぎり、教えられることは(以下同文)。


「ラジオとはいったいどんなものですか」と俺が訊かれたら。
うーん、とりあえず三日待ってくれるか、といって便所に駆け込む、だな。