●ぢごくの淵まで掘り下げて


そういえば今日の午前中は、借りたDVDにて『大日本人』を観ていたのだった。
結論からいうと、思いのほか愉しめた。
エラそーにいうけれど、松本の狙いも着想も悪くないと思う。


しかし。


特に前半、大佐藤が「焼くことになりました」と言って“第弐”へ向かうくだりまでなんて、そこそこ緊張感もあっていい具合だった。
あの原付を追うシークエンスはTVではまず無理だもんなあ。
「シーンが長い」っていうよくわからないひとことでもって切られそうだもの。


しかし。


テイトウワの音楽、発電所(?)の作業服のおっさんふたりの間合い、犬連れてるUA、この辺はどれもよい。


しかし ああああry¥¥ym。


やっぱり映画に挑んだ以上は映画の土俵で勝負してほしかったと思うのだ。
アレでは、「こんななったりしてなぁ」「そうそう、で、出てくるのがみんな○○○やねん」等々と仲間内で言い合って、くくくとウケてるレベルそのままやない?
掘り下げる作業は必要だと思う。


TVバラエティのお約束をなぞって、映画の常識とやらは破って捨てる、それだけでは、四代目は浮かばれないよ。
むしろこれなら、お茶の間に届くなか、それこそTVでやってこそ輝いたのでは?
これをもって「アメリカに対する分裂した自我を抱えた日本人」云々と語るのは、やっぱチョイと穿ちすぎかと。


ただし、これを持ってカンヌに乗り込んだのは凄いと思う。
よっぽど自分の作品を客観視できてないか、自信があったかのどちらかちゃうかな。


カンヌといえば、ひとつ想起したことがある。
コッポラが『地獄の黙示録』を撮ったときの話。


ニューシネマ以降に台頭してきた彼らの世代ーー大学の映画学科を出たディレクターたち(UCLAのコッポラやスピルバーグ、USCのルーカスら)は、ある意味、学生映画の8mmや16mmのパースペクティブでもって70mmのシネスコに挑んだのだというような指摘を、以前、村上春樹がしていたように思う。
コッポラたちの試みの意義みたいなものは、簡単に要約できない(というか、あまり覚えていない。ごめんなさい)のだけれど、主に『地獄のーー』に対して「物語が破綻している」「子どもだましの戦争観だ」といった批判をすることはあまり意味をなさないというようなことだったと思う。


『地獄のーー』が目指したものは、たとえばそれまでの神の視点で戦争を描く叙事詩ストーリーテリングとはまったく異質なものだから、というような話につながったような。
で、それは村上本人の『羊をめぐる冒険』の描き方にも通じてくるといったような……。
んー、うろ覚えですんません。
いつか原典に当たってちゃんと考えてみないとな、この辺。


ともかく、前段で私は、映画というスケールにのっとってない、みたいな言い方をしたのでありますが、別にのっとってないといかんということではないんだよ、という例証です。


のっとってないといかんということではないんだが、うーん。
意外とひっかかる作品ではあった『大日本人』。
(ほんとは正直、もっと箸にも棒にもかからんものかと心配してた)
これはこれで愉しませてもらっておいて、次作に期待。




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