●おおきなるんは厭なことや、でも


川上未映子の『乳と卵』。
結局、掲載されていた「文学界」は探せずにいて、昨日だかに発売になった「文藝春秋」に“芥川賞受賞作、全文掲載”として載ってたのをようやく読んだ。


東京の三ノ輪のあたりに住んでいる三十代の「わたし」のアパートに、大阪から二泊三日で泊まりにやって来た姉親子。
ホステスをしている三十九の姉・巻子は豊胸手術をしようと考えていて、その情報を集めている。
今回東京へ来たのも、そういう手術をしてくれる病院の下見に来たのだ。
しかしその姉と、姉の娘、つまり「わたし」からみると姪である小学生・緑子は半年も口を利いていない。
母の問いかけを娘は聞くが、その応答はすべていつも持参している小さめのノートへ書き込む筆談で為される。
胸を大きくすることに固執する母と、その母に語りかける言葉を失っている娘。
それに大阪から東京へ出てきたものの、なにひとつ、どうも上手く行っていない様子の、わたし。
それぞれに病んでいる様子なのだが、この三人が、作中のせいぜい53, 4時間ほどのあいだに、ある種の通過点をくぐる。
さしたる解決を見ることもなく日々はつづいてゆくのだが、前と後とでは、なにかが微妙に変化している。
そういう、物語としての価値ある時間を感じられる小説。


語り手である「わたし」は、いちいち正しく引っかかる。
姉や姪の言葉のなかの、すこし不思議な箇所、おそらく意図的に端折られて意味が通りにくくなっているところを敏感に感じ取る。
感じ取って、あれ、と思う。
思う、が、おおむね、それを問い正すようなことはしない。
あれれ、と思って、そのまま相手の話を聞いている。
もしくは、相手の様子を見ている。
まず、その距離感がいいと思った。


で、反対に、その望遠鏡を逆から覗いたみたいな視点とは対照的に、ものごっつミクロに寄った視点の部分もよい。
たとえば、巻子の生活環境の描写も、勤め先である「京橋のスナック」まわりのことをはじめとして、やたらリアル。


その他。
巻子が話す、緑子の父が言ったという生硬な言葉。
おためごかしに巻子が口にする、ひとり娘を育てる片親の感慨じみた嘘くさい言葉。
それへの緑子の反発。
緑子が、なぜ「嫌」と書かずに「厭」と書くか、「厭、厭、厭」と何度も書くか、その気分。
予想したことはすべて裏切られるのだ、というジンクスを説明するわたしが無力さに気づく場面。


むむ、どれも逐一響いてくる。


あと、わたしが感じる感覚を表現するときの的確さも凄い。

「よくあるあの、漢字などの、書きすぎ・見すぎなどで突如襲われる未視感というのか、ひらがななどでも、「い」を書き続け・見続けたりすると、ある点において「これ、ほんまに、いぃ?」と定点決まり切らぬようになってしまうあの感じ、」


いや、ほんましびれる。


俺も、「動く」という漢字を見すぎて、それが「重」と「力」に分かれてしか見えないようになって困ったことがある。
その感覚をここまで端的に的確に表現されるとは。
こんなん、カント並みの所業なんちゃうん。
こういう哲学的なアプローチから為される文章のトライアルも愉しいし、あと、なんともいえんダークなユーモアに満ちたくだりもある。
わたしの記憶のなかの「胸大きくしたい女子と、そういうのに冷っと水かける女子との言い争い」とか、めちゃめちゃオモロい。


そう、マテリアルは「豊胸」と「生理」。
それだけなら男子たる私は少々苦手として然るべきところなのかもしれないが、そんなこたぁすっ飛ばして胸に来る。
扱ってる素材や舞台設定や登場人物のプロフィールとか、そんなん、小説読む上では関係ない。
そういうことも分かって新鮮。


あと、山場となる、二泊目の夜の、“卵”の夜のくだりの緑子の言葉ときたら、もう一字一句が胸のど真ん中に食い入ってくる。


なにより、こんな風に読み手の言語観を侵蝕していく、合間合間に大阪弁を駆使したあの文体のリズム。
強烈に染み込んでくる。


めっきり“小説”なるものから遠ざかっていたけれど、久しく興奮させられる読書体験だった。




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   *   *   *




さてここから先はまったくの余談。
生まれて二度目に文藝春秋を買った。
川上未映子本人へのインタビューもあって、それはそれでとても面白い。
彼女が、文学・小説を必要とすると同時に哲学を求めてしまう気持ちとか、大層、心強く読んだ。


ただ、本作が掲載されている箇所の前に、今回の芥川賞の選評というのも掲載されていて、その選考委員のなかのひとりの評があまりにあまりな苦笑を誘ったので、記しておきたくなった。

「受賞と決まってしまった川上未映子氏の『乳と卵』を私はまったく認めなかった。どこででもあり得る豊胸手術をわざわざ東京までうけに来る女にとっての、乳房のメタファとしての意味が伝わってこない。(略)一人勝手な調子に乗ってのお喋りは私には不快でただ聞き苦しい。この作品を評価しなかったということで私が将来慙愧することは恐らくあり得まい。」

この最後の一文が、すでに言い訳、英語でゆうところのエクスキュウゥズになっているのがご本人にはお分かりにならないらしい。
「この作品を評価しなかったということ」で、この方がいつか心に深く恥じ入るかも、などと誰が思うと思っておられるのか。
この方にしてはずいぶんと謙虚なことである。


この方に分からないことは他にもあって、「どこででもあり得る豊胸手術」を受けるという名目で東京にやってきて、妹や娘の父親に会う巻子という人物のこともまるでお分かりにならないらしい。
「乳房のメタファとしての意味」ってーーこれもまたなんともブンガクセーネンじみた形容だがーー、それ、読んでいて伝わってこないか。
そこに理解が及ばない方に小説を評価させるのは、正直、酷ではないかと思う。
この方を選考委員にと推挙された方々は、さぞかし慙愧にたえないのではないかと、やや心配になった(が、まあそれは余計なお世話というものだろう)。


さらに余談だが、村上龍が他の候補作だった楊逸の『ワンちゃん』に触れて指摘していたところも印象的だった。

「ヒロインの中国人女性の視点で描かれた日本の地方の『惨状』はリアルだった。地方で頻発する陰惨な事件の背景がはじめて小説で描かれたといってよいかも知れない。」

唯一、こういう視点でこの『ワンちゃん』という作品を評価している。
この作家らしいところに目をつけての言葉。
でもそれって、マンガでは新井英樹が「愛しのアイリーン」で10年前に描いていたんだけどな。
とも思いつつ。


愛しのアイリーン 1 岩男 (ビッグコミックス)


(一部、敬称略)




   *   *   *




と、ここからは余談の余談。追伸の追伸。おまけのおまけ。


東京からの帰りにこの小説を読み切ったのだが、その車中、隣り合ったのはひと組の母子。
かつての池上季実子を三十代にしたようなお母さんと、甘えたそうな、可愛げのある男の子。
聞けば息子氏は3歳という。
うちのも近い年ですと言って挨拶した。
私は私でこの文春を読み、あちらはあちらで息子君がはちみつれもんをこぼしたりで大わらわ。
こういうのがまったく気にならなくなったのは、一応、私も家族を得たゆえのことか。


やがて名古屋を過ぎ、京都に着いた。
そこでふたりは降りていった。
降りる際に抱っこをせがむ息子君は、やや引きずられるようにしてドアへ。
ホームに降り立つまでは視線を送り、見届けていたつもりだったのだが、そのあと、私は読書に戻ってしまった。


それから十五分後、新大阪に着く直前、皆が腰を上げ、出口ドアに向かうときに、後ろの座席に座っていた初老のご夫婦から声をかけられた。
「あの、さっき、お隣にいらしたあの、小さな男の子……」
は。はい。
「あの子がね」
ええ。
「京都の駅のとこで、ホームからずっと」
と窓の方をみやり、
「手を振ってらしたわよ」
と、そんなことをおっしゃる。


不覚である。
まったく気づかなかった俺を、彼(と彼のお母さん)は、どう見送っただろう。
子どもはホームに降りたあとも、電車を見送りたがるものだ。
そんなことは、自分の息子に充分教えられていたはずなのに。


これぞ慙愧にたえないというもの。
それとも、降りしなにそんなことを教えてくれる、そんなひとがいたということを喜ぶべきだったか。
たぶん両方である。両方であるのだけれど。
これもなんだか、とても川上未映子的シチュエーションだったなと、あとから思った。


表題に引かせてもらった言葉の前後は、こう続く。

厭、厭、おおきなるんは厭なことや、でも、おおきならな、あかんのや、くるしい、くるしい、こんなんは、生まれてこなんだら、よかったんとちやうんか、みんな生まれてこやんかったら何もないねんから、何もないねんから


京都で降りた、あの母子に幸多からんことを。