●『小さなメディアの必要』の必要


仲俣氏のブログ【海難記】の記事に誘われ、青空文庫へ。
http://d.hatena.ne.jp/solar/20080325#p2
http://www.aozora.gr.jp/cards/000117/card611.html


そこでダウンロードした津野海太郎小さなメディアの必要』を読む。
いろいろと刺戟に満ちている。


たとえば「子ども百科のつくりかた」と題された一文。
ここには、大人/子ども、わかりやすいこと/わかりにくいこと、オプティミストであること/ペシミストであることといったお馴染みの二項対立に架橋するヒントがたくさん詰まっている気がする。


このなかの言葉(あるいは、このなかで引かれているいくつもの言葉)にも深い含蓄がある。

 子どものためのなどというよりも、私たちがおちこんだ袋小路からぬけだすために、ぜひとも子どもの力をかりたい。案外、そっちのほうが本音なのかもしれない。もはや子どもの力なしには、私たちが単純で基本的なことばにたどりつくことはできないのではあるまいか。


著者がその考えをより強めることになったのには、1973年にイタリアで刊行されたという子ども百科の存在があるという。
平均200ページで全十巻というその百科事典『私と他人たち』の編集部はいう。

 この第一巻はペシミズムの立場にたつものと見られるだろう。なぜなら、ここでは悲しい事件、苦しいこと、醜いものーーたとえば不正行為、抑圧、搾取、戦争、破壊の事実が語られているからだ。しかし、だからといって、事態はいつも悪いほうへむかっている、とおしえていることになるだろうか。
 もしもオプティミストであるということが、事態はかならずよくなると断言することではなく、よくなりうると断言することを意味するのであれば、われわれにだってオプティミストである理由がないわけではない。


そして花田清輝のこんな言葉も出てくる。

 この全力投球は、作家が、読者をーーたとえその読者が、幼年や少年の読者であろうとも、自分と対等の人間としてーーあるいはまた、対等以上の人間として尊重しているところからきている。子供たちには、大人たちほど、知識や教養や表現力はないかもしれないがーーしかし、知性がないとはいえないのである。
   「ランチとお子さまランチ」花田清輝

(本論とは逸れるが、この花田清輝の扱われ方も鮮やか。そういうことも含めて、この津野さんの文章自体が、しびれる名文である)


マイクロではない(かといってブロードというほどブロードとも思えない、どちらかといえばナロウでニッチな)ラジオというメディアに従事する一員として、思うところ大である。
同時に、一生活者としても。


プリントアウトして、題字を載せた表紙を作り、クリップで留めてみた。
質素な見かけは内容に即していると思う。
だが、ここに書かれていることは高い熱を発している。
しばし持ち歩いて機会があるごとに何度も目を通すものになるだろう。