●忸怩たる思いの効用
先日来、我が狭量なる頭にこびりついて離れない映画『歩いても 歩いても』。
私は傑作だと思うが、別の意見を聞いたのでちょっと考えてみた。
別の意見とは、いわく煎じ詰めれば「普段なにもしないでいて、あとになってから悔やんだりして、『間に合わなかった』みたいなことを言ってるのはどうなんだかね。いってみりゃ卑怯なんじゃないの。まったく男ってのはお気楽で困る」的な意見。
実際、出演しているYOUさんにコメントをいただきに参った際も「映画、とても良かったです」と感想を申し述べると、「んー、男の子はねー」という言葉を頂戴した。
つづく言葉は(男の子はねー、こういうのに弱いよねー)かと想像した。
たしかにこの「間に合わなかった」という感覚は、男のほうに根強いものかもしれない。
親の看取りに関しても、女性からは総じて「やることはやったから後悔はしていない。悲しくはあるけれど」という声を聞くことが多いように思う。
それは合理化に長けてるってだけのことなんじゃないの、という気もしないではないが、まあそれは抑えて。
なんにせよ、この「間に合わなかった」「悔いても始まらない」という、忸怩たる思いこそが表現に繋がるのではないかという気はするのである。
悲しい出来事を、ストーリーでもドキュメントでも、なんらかのカタチにする場合、このあたりの心的葛藤はつきもののことではある。
ただ、その葛藤を解決せずに、持ち越すことができるかどうか。
生活者としては、そんなのは持ち越さないほうがいいに決まってる。
なんらかの儀式で鎮めておいて、次に行ったほうがいい。
心の負担も、それならばまだ軽い。
ところがなんらかの理由で、そうできない人間がいる。
どうしたって、持ち越してしまう人間がいる。
持ち越しすぎて病んでしまうひともいる以上、一概に持ち越せ、抱えていろなんてことは言えないが、捨て切れないものを無理に捨てることはないと思う。
小津安二郎や木下恵介は、その辺を持ち越していったひとではないか。
かたや、ある意味、解決をつけて次へ次へと進んでいったかにみえる黒澤明も、後半生において、持ち越せないなにかを抱えていたように思わせるところがある。
持ち越し方を工夫したのが岡本喜八ではないかという気もする。
要は、なにがしかの持ち越しを抱えていない人間は表現者には向いていないということ。
なにしろ表現なんて病んだ行為で自分を鎮める必要がないのだから。
それはそれでいい。
ただし、その持ち越しっぷりで表現作品の評価を上げ下げするのは、どこかフェアでない。
そんな気がする。