●ネタと消費の関係性

「ラジオが伝えることについて」


ーーーー様


貴重なご意見をご丁寧にお書きくださり、ありがとうございます。


おっしゃられているお気持ちについて、僭越ながら、しばし熟考いたしました。
理解できる部分や反省すべき部分が多々あることを感じます。


同時に少々理解しかねる部分があったことも申し上げておかねばと思い、記させていただきます。


端的に要約させていただくならば、「録画して観るのを楽しみにしているスポーツの結果を先に知らされてしまうのは困る」というのがこのたびのご意見であったかと存じます。


申し訳ありませんが、それは程度によるところが大きいのではないでしょうか?


前日深夜(今朝未明)の海外での試合結果であれば、それは伏せる必要もあろうかと思います。録画したままで、まだ観ることができていないという方が大勢おられると推測できるからです。
ただ、数日後までその結果に触れずにオンエアを遂行せよというご意見には少々無理がございませんか。


我々もまた、同じくこの世界の出来事を呼吸しながら生きています。そうでなければ何かを伝えていくなどということはできない。個人的にではありますが、私は常々そう考えています。


ラジオを生活の一部として(家具のひとつのように?)親しんでいただいているのは有難いかぎりです。
しかしながら、我々はやはり何がしかの意思や言葉を発するものであります。それは音楽であったり情報であったり考え方であったり、いろいろです。物言わぬ家具ではないのです。


だからこそ幾ばくかの方々に聞いていただけているところもあるのではないかと思ってもいます。


少し脱線します。


私も映画の筋を最後までバラされてしまうことには許しがたい怒りを覚えるクチです。
しかし、そういう要望の声が大きくなるにつれ、「批評」というものが痩せていく現実もあると思っています。


それはそうでしょう。
「とにかく語るな。それを楽しむかどうかはその娯楽を一義的に享受するものの権利なのだから」という声が高まれば、「それ」(フットボールの試合だったり映画だったりコンサートだったり)について話すのも難しくなりますよね。


しかし娯楽というのは本来もっと広い容積をもったものではありませんか。
「それ」についてあれこれと語り合うことも、またその娯楽をめぐる楽しみのうちではありませんか。


そういうことはネットのフォーラムやコミュニティでやるからラジオは確定情報の供給だけしていればよろしいというのも、あるいはまた、世の流れではあるのかもしれません。


しかし私はその流れに棹さしたいと思っています。
なぜならラジオの価値は、そういった「アレコレ語り合う」なかに多くを宿していると考えるからです。


長文失礼いたしました。
お気持ちに沿うお答えでなく恐縮ですが、いただいたご意見から考えさせられるところは大でした。
ありがとうございました。

というような趣旨の長い文章を番組のBBSに書いた。


リスナーの方から指摘(というか要望というか)をいただいたので、それへの応答として。
どういう指摘であったのかは文面から想像していただくほかないが、まあお分かりいただけるのではないかと思う。
広義にはーー俗な言い方を許してもらうならばーー「“ネタばれ”に関するクレーム」といえると思う。


前々から気にはなっていたことではあるのだが、ネタばれということに関して、ここ最近、世の中はずいぶんと神経質になってきたようである。
映画のストーリーテラーとして名高い喋り手に、Hさんという御大が関西にはおられる。
Hさんはたしかに“聴かせる語り口”の持ち主なのだが、往々にして“エンディングまで語ってしまう”ことも多い。
そこを笑いのネタにされているところもある。
とはいえ、このネット時代になってみると、その“エンディングテラー”ぶりもなんだか牧歌的に思える。


もちろんミクシィのコミュニティにいけば、映画の話からライブで演奏した曲目に至るまで、あらかじめ「この項には“ネタバレ”が含まれています(それでもかまわないというひとだけ進んでね)」というエクスキューズが設定されている。
だから安易なネタばらしに遭遇することは避けられるのかもしれない。
けれどネタばれになることを恐れるあまり、対象の頭の上空30センチくらいのところを撫でただけの言及に終わってしまうことも多くなったのではないか。

なぜ“ネタばれ”は忌み嫌われるのか。


おそらく、ネタばれを恐れる心理というのは、消費者意識の高まりとシンクロしている。
エンターテインメントを十全に思いきり消費する、その権利を損なわれたじゃないかというのが、“ネタばらし”行為に対する怒りの本質である。
というのが、とりあえず拙速に私が立てた仮説。
“消費者”というキーワードを据えるといろいろ見えてくることがあると思うのだ。


エンターテインメントの魅力は別に鮮度ばかりにあるわけではない。
筋も役者も分かっているのに愉しめる映画や舞台はいくらもある。
だが、問われるのは鮮度であることが多い。
なぜか。
問い易いからに過ぎないのではないか。


送り手の立場からいえば、鮮度を打ち出すのが手っ取り早いという事情もある。
ことに事前におこなわれるパブリシティの方法としてはそうである。
「これまでになかった組み合わせの共演である」
「衝撃のストーリー展開、そしてラストである」
だから「この作品は、他の誰より速く見ることが価値となるようなものである」
そういう風に煽ることが効果的だと考えられているのだ。


そのようにエンターテインメント作品(スポーツの試合だって充分に作品である)に接することが、「あるべき正しいエンタメ(厭な略語だけど)消費者」の姿だという認識が広く行き渡っている。


そう考えている限り、我々は自由に話すことができない。
もうひとつ、“ひとそれぞれ”という相対論も足枷になっている。
なにが誰のネガティブセンサーに引っかかるかなんて分からない(考えるのも面倒くさい)。
どこまでがセーフで、どこからがアウトか、それは受け取る側の“ひとそれぞれ”。


だからいっそできるだけネタばれから遠いところで話すしかない。
そうするとどうなるか。
本質から遠く離れて、「出演者の衣装がいい」とか「○○を与えてくれる」(○○には、夢でも勇気でも代入可能)とかそんな話ばかりになる。


逆だってある。
“ネタばれ”が禁じられているから、それを不作法に暴力的に突破して、ネタばらしをすることだけが売りのような安易な紹介も増える。
「この作品の意味は……こういうことだよね?」という当てモンみたいなインタビューが多いのも「ネタばらし」という観点からみれば納得できることがあるのではないか。


いささか暴走気味の思考ではあるが、今日の後半はずっとそんなことを考えていた。