●ダイレクション or ダイ?


日曜日は、北京五輪の閉会式を観ようとして、一度はNHK-BSにチャンネルを合わせたのだけれど、始まってすぐ消してしまった。
ひとことでいうなら、しらけちまったのだ。


開会式は観たのである。
3時間半みっちりと。
そんなこと、生まれて初めてのことだった。
モントリオール五輪は観ていたのかもしれないが、記憶にない。
モスクワ五輪は日本がボイコットした。
1980年といえば、私は中2。
一応、柔道少年になりかけて、でも全然上達しないので部活は夏に辞めた。
自分にはセンスがないと悟ったのだ。
さらにそこを駄目押ししてくれたのが、山下泰裕の涙だった。
これにも、しらけちまったのだ。


ほんとに柔道に賭けてるなら、四年に一度のチャンスが逃げたくらいなんだっていうんだ。
それも国家が用意してくれるテーブルだろう、そんなものによっかかっていて武道の道が極められるかってんだ。
巴突進太なら泣かないぜ。


思えば、青くさい観念主義に浸食されていたものである。
以後、アンチ体育会の道を歩みつづけるのは、実はこのときの印象が大きい。
観念の鎧は意外に強固だ。
それに時期も大きく作用しているかもしれない。
「中2病」とはよく言ったものである。


さて、そんなこんなですっかり遠ざかっていたオリンピックだけれど、今回は中国での開催である。
経済や政治にがっちり絡め取られている近代五輪の姿を考えれば、今回ほどーー慎みを欠くのを承知でいえばーー面白い場所での開催はない。
44年前の東京とも72年前のベルリンとも、どこか重なる図。


なので開会式は通して観た。
たかが五輪の開会式風情にここまで血道を上げて挑む国は、今後おそらく中国以外に出てこないだろう。
ブラジルかインドなら、かくや……という思いもないではないが、捉え方が違う気がする。
キーワードのひとつは、民主国家かそうでないか、全体主義かそうでないか、である。


その意味では、8/24付の朝日新聞朝刊・ラテ欄テレビマンユニオン会長の重延浩が述べていることはポイントを突いている。


彼は今回の開会式の演出を、1936年に開催されたベルリンオリンピックの記録映画「民族の祭典」(『オリンピア』第1部)におけるレニ・リーフェンシュタールの演出と重ねて論じているのだ。
そのレニを日本に招いて、その演出の理念を訊いたことがあるという。
レニの言葉はこうである。

「あの時私は、なによりも美の創造にすべてをささげていた。そこには美しいものがあった」


これを、ナチスドイツが有していた美の観念と重ねてしまうのは酷な気がする。
レニが(演出を施した上で)記録した映像は、たしかに時代や政治体制を超えて、見る者の視覚の、ある部分をたしかに撃つのである。
それは確かだ。


ひるがえって、今回のチャン・イーモウ張芸謀)の演出をどう見るか。
美の観点からいえば、レニには及ばない。
もちろんそれは、記録として撮影され編集も行ったあとの映像と、基本的に生中継のなかで行われた式典という、両者の性格の違いを考えれば同列に並べて優劣を付けるのは無理がある。
それでも雄大な時代絵巻を、現代のテクノロジーも駆使して展開した手腕は評価されて然るべきだろう。
実際、開会式のアタマから3時間ほどを、私はかなり愉しんで観た。


しかしそれから2週間が経ち、私から閉会式を見る気を奪ったものはなにか。
それをずっと考えている。


数日経って思うのは、「嘘をつくレベル」の問題だ。


かつて宮崎駿が「インディ・ジョーンズ」の1作目『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』に苦言を呈していたことがある。
あの話のなかで、インディが潜水艦に取り付いて、ナチスの秘密基地に潜入するというくだりがある。
それを宮崎は叱っていた。
「(潜水艦は海のなかを潜っていくというのに、その甲板に取り付いて)どうやってあの基地まで行ったというのか? 映画は絵空事なのはたしかだけれど、嘘をつくレベルというものがある。最初にあるレベルを決めたならそれを守らないと観客は信用しない。自分で決めたそのレベルを、勝手に上げ下げしてはいかん」
うろ覚えで申し訳ないけれど、論旨はこういったことだったと思う。


嘘をつく商売なのは認めるとして、だからといって、嘘のレベルを勝手に変えていいわけではない。


一応、演出のはしくれにしがみついている者として、まことに染み入る言葉である。
思うに、たぶん「いやあ、これはしかし演出ですから……」と言った時点で、その演出者はかなりやばい地点に立っているぞということだと思う。
「演出だからこうしましたけど、何か?(いいでしょ、だって演出なんだから)」
開き直って、そうエクスキューズしなければならない時点で、ある意味、負けなのだ。
勝負に勝っても、相撲には負けているのだ。


人間は嘘をつく。
それはほんとうだし、ある意味で仕方ない。
けれども嘘をつくにも順番がある。こういう流れで嘘をついていったのならある程度仕方ないが、そうでないなら寛恕しがたい、という順序がある。


話は飛ぶけれど、これは前に離婚の話をした*1ときのことと、どこかしら通じるところのある事柄なのだ。

人は誓いを立てた相手にだって背いてしまうことがある。
そういうこともたしかにあるだろう。
だがそのことの是非はともかく、開き直って「人間だもの(そりゃ嘘もつくさ、だって人間なんだから)」と言ってしまったとき、なにかがその人のなかで終わる、とは思う。


少なくとも、それを自分から言っては、駄目なのだ。


張芸謀、責任感から自分でそう話したのかもしれないけれど、そこはやはり黙するべきところだった。
優れていようがいまいが、演出家であるならば。
そんな科白を口にしないと逃れられないところに、足を踏み入れるべきではなかったのではないか。
なぜって、観てるほうがしらけちまうからさ。




こんな御託は、一応、自由主義陣営に属する国の、大して責任を問われることもない立場の三文演出屋だから言えることかもしれないのは百も承知だけれど。