●インファイター、世に憚る


金曜日の渋谷は数分歩いただけでも疲れるなあ。


日帰りで東京取材。
来週で最終回となる昼の帯番組のための収録だった。
関係各位のご協力のおかげで素晴らしい内容のものが録れました。感謝します。


DJの志向、私の志向、演出作法などもあいまって、基本、インファイトでやってきた私の担当曜日。
結果として、整合性よりは突出を、無難よりは単なる難を求めるものになっていたか。
BGMとして聞き流すには、やや不向きなものを作ってきたことになるのかもーーいやここは素直に認めようーーなるのだろう。


同業のディレクター諸氏の受けは総じてよろしくなく、同業界ながら他業種の方々(ライブのイベンターさんとかレコード会社のプロモーターさんとか音楽情報誌のエディターさん)の一部には妙に面白がってもらえていたような、そんな気がする。
それが何を意味するのかはわからん。
(しいていうなら、責任が介在している立場で聴くかどうかみたいな違いなんだろうけれど、それをいうなら、それっていったい誰のほうを向いた責任なんだい、ってことだってあるからね)
分析している余裕はなかったし、いまもない。


ただ私は、雑誌は編集長の顔が見えないものはだめだと思うタチである。
ラジオだって同じだと思っている。
DJの声に遅れること数秒(あるいは数分、数時間)してでも、個々の演出担当の顔が見えてくるもののほうがいいと思っている(出たがりとか安い自己顕示とは違うよ)。


マーティン・スコセッシが、なにかのインタビューでこんなようなことを言っていた記憶がある。
「さりげなく映像を差し出すのがいいというタイプの監督もいるけれど、私はちがう。
ここにこんなものがある、見てみろよって、観客の目を引っ張ってでも見せるような映像づくりをするのが好みなんだ」
細部は違うかもしれないけれど、たしかこんなような趣旨のこと。
あのひとの作品を考えれば、肯けない言葉ではないだろう。
で、大監督を引き合いに出すのは畏れ多いけれども、ま、私も同意するひとりなのである。
いいと思っているものは、耳引っ張ってでも聴かせたい。


聴く分には、もっと奥ゆかしい表現をする監督もコンポーザーもバンドもシンガーも好きだけれど、自分が何かを伝えようとするときの構えみたいなものは、きっとまた別なんだろう。
開き直るつもりで言っているんではないです。一応、ゆえあって、このスタイルなので。
だから批判も甘んじて受けます。反省したりはしないけれども。


そんなわけで(も、どんなわけもなく)、来週、火曜昼1時。
天神橋のビューティーDJ&ビーストDの凸凹コンビ、ラストランであります。