●モダンなモールでプレモダン


昼間の、梅田の地下街。
ヒルトンプラザに地下でつながっているところで声をかけられた。


「すんません、あの」
はい、なんでしょか。


「このへんで、あの、財布落ちてるの、見ませんでしたやろか」
見れば、年の頃は50代半ばと思しきオジサンである。
どことなく角野卓造に似ている。
ツイードっぽいジャケットに、胸元の赤いチーフが決まっている。なかなかのお洒落さんだ。


いえ。財布……ですか?
「ええ、黒い財布で。どうもね、このへんで落としてしもたらしいんやけど」
私もいま、あっちから歩いてきただけでして。でも、見ませんでしたねえ。
「おませんか。(ぐっと首をまわして遠くの方を見ながら)あー、そしたらやっぱり持っていかれたんか、ちくしょう」
そら難儀ですな。
「ついぞさっきのことで」


気の毒だが、大阪の心臓部である。ひっきりなしに人は通っている。
さすがにぽこっと財布が落ちたまま放置されているほど、呑気な界隈ではない。


そしたら、警察がね、あっちの方に。
「あの、向こうの」
そうです、曽根崎警察ゆうのがあっちにありまして……。
「ええ、ええ、行ってきましてん。それでキャッシュのカードやらなんやらも全部止めて。届け、出して。……けど、たぶん、いや、このあたりやったんやけど思て、ずぅっと見ながら戻って来まして」


おじさんは、やや上気しながらひと息に話す。
ふぅん、ずぅっと見ながら戻ってきたんですか。
そのわりには、いま、まっすぐ私の傍に向かって来たような気がしたんだけども、と思いつつ。
カードも止めて、警察に届けも出したんなら、できることはもうそんなにない。


そら困りましたな。
言葉をはさみかけたところで、話し続けていたおじさんがふいに言った。


「助けてもらわれへんやろか」


え。


「伊勢から来たんやけど、戻る金もなくて」


ああ。これは、アレだ。


「なんぼか少しでかましまへんねん。助けてもらえんやろか」


間違いない。
昔、インドを旅行しているとき、南部の街、マイソールでまったく同じ目に遭ったことがある。
一見、人の好さそうな、身なりもきちんとした中年のおじさんというのも同じだし、微妙に離れた距離の土地から来たという設定まで一緒だ。


少しお金があれば戻れるから、自宅に戻ったらすぐに返すからとおじさんは言葉を続けている。
その方は見ずに、5メートル前方の地面を見ながらお答えした。


すんませんな。薄情な都会人の端くれなもんで。
「そんな、こっちは田舎者でもう……」
やっぱり反応が早い。早すぎる。


なんにも、できませんわ。
と言いながら、「わ」のところで目線を上げておじさんを見た。
ほんの一瞬、目つきが据わる瞬間があった。
石橋蓮司が得意とするところの表情。
「ちっ」と、音の出ない舌打ちをした顔が見えた。


すんませんけど。
そう繰り返すと、卓造から蓮司に変貌したおじさんは、すっと踵を返し(たぶん憤然として)地下街の人混みのなかへ消えていった。


違っていたら悪いとは思うけれど、これはまず間違いない。
寸借詐欺である。


ふつう、いくら急なことでピンチに見舞われて困っているといっても、見ず知らずの人間にいきなり金を貸してくれと持ちかけるのには、相応の勇気と覚悟が必要だ。
それだけに、もしそれを一言のもとに否定されたら、屈辱で相当傷つくはずだ。
怒りより先に、その悔しさやショックのほうが出ると思う。
だがおじさんの表情には、プライドを傷つけられた人のそれは見られなかった。


そうなんだ、悪いけど、おじさん。
「助けてもらえないだろうか」と切り出すまでが少々早すぎた。
あれじゃ、人は騙せないんじゃないかな。


ちなみに、インドで私は実によく騙された。
寸借詐欺やら、寸借詐欺とタカりの中間みたいなやつやら、純然たるタカりや、とにかく金貸してくれというのやら、あやしい物品の売買をめぐってのやりとりやら、それはもう、いいだけ騙された。
詐欺というほど大袈裟なものでなく、ペテン、イカサマといった方が近いかもしれない。
swindleでもtrickでもなく、cheatってやつ。


そのマイソールの一件では、60ルピーほどを貸した。
宿に帰って、夜になってようやく、そうか、あれが寸借詐欺っていうやつだと思い当たった。
まず90年代のニッポンではお目に掛からないもんだよなと思うことにして、自分の間抜け具合を慰めた覚えがある。


それから16年、失われた10年や未曾有の不況を経て、かくも前近代的な手口のペテンがニッポンに返り咲いたのか。
そう思うとなかなか感慨深いものがある。
まるで実録・裏「三丁目の夕日」である。
これから日本はほんとうに戦後の闇市みたいな世の中に回帰していくのかもしれない。
おじさんの芝居がかった喋りや表情を思い出すと、そんな気がした。




そういえば、『流星の絆』は面白いなあ。
あれも騙しの話だ。
宮藤官九郎はさすがだな。
なんてことを思ったり。