●Don't Trust Over 40.


映画『40歳問題』の試写に行く。


浜崎貴司(65年生まれ)、大沢伸一(67年生まれ)、桜井秀俊(68年生まれ)という3人のミュージシャン。
「いまから15〜20年前にデビューし、いま40代を迎えた」ということのほかに、これといって音楽的な共通項があるとは思えないこの顔ぶれ。
彼らに「3人で曲を作ってほしい」と持ちかけ、その後の模様を追うというドキュメンタリー。


企画先行なイメージもあったのでそれほど期待はしていなかったのだが、意外に面白く観た。


40歳云々というのは入り口に使われるだけの方便で−−とまでは言い切れないにしても、まあそんな感じ。
それよりは、音楽に賭けて生きてきた男たちのエゴとプライドのぶつかり具合(と躱し具合)が描かれる後半が、この作品の白眉だと思う。
これがなかなか見応えがあるのだ。


まあ、この「音楽に賭ける」という意味合いが、たまたまとか、期せずしてこうなっていたとか、真剣に取り組んだ結果なのだとか、それぞれでいろいろに違っている。
そういう違いにおけるコクみたいなものは、やはり40歳ぐらいにならないとうまく表に出てこないかもなあとは思うので、その伝でいけば、タイトルに40歳問題と謳われているのは嘘ではない。


「初対面組を含む3人でのいきなりの曲づくり」という方法論については異論もあるだろう。
一緒に観た同僚のひとりは上映が終わるやいなや、ぷんぷんと頭から湯気を立てんばかりに怒って席を立った。
音楽をなんだと思ってるんだ、あまりに無礼だ、と。
わたしは−−悪辣なジャーナリスト魂のほうに加担しているのかもしれないが−−それほど下司な所業だとは思わなかった。


プレス資料には、「無理難題を押しつけ」という表現も出てくるが、これは露悪的な言い方をしているだけだろう。
音楽そのものを小馬鹿にしたり、そのひとがやっている表現を貶めるような物言いは論外だと思うが、こういう提案自体はありだと思うのだ。
酒呑まして挑発するインタビューよりよっぽど建設的やない?


許可も得ずに追っかけていきなりカメラ突きつけてるわけじゃないからパパラッチとは違う。
ただし、目的を明らかにせずに招集しておいて、いきなり「曲を作ってくれ」ではパパラッチと変わりないじゃないかといわれても仕方のないところはある。
そうなんだけれど、んー、なんというか、いわゆる密着スタイルのドキュメンタリーには、この手のアポリアはついてまわるものだ。
ライブの現場で、カメラマンがステージ上のミュージシャンから蹴り入れられてるのも同じことで、それはもう「勝負のうち」なんよ。
「取材」というオファーを受けた以上は、まつわりつかれることはある程度覚悟しなければならないだろう。
しかし同時に、うざったければ不快感を表す権利も被取材者にはある。
で、それでも追いかけていく権利が取材者側にあるかといえば、そんなものはないような気はする。
気はするけれど、核心に触れる手前で引き返していたのではドキュメンタリーにはならない。
そのあいだで正しく揺れていれば俺はその取材を信用してもいいと思っている。


大衆表現を生業として40代を迎えた人間たちから「生きる姿勢のナニガシカ」を引き出そうと考えるなら、表現に向かう姿そのものを最初から撮りたいという発想は、ドキュメンタリストとしてそれほど突飛なものではないと思うし。
実際、出演者のひとりが「これ、無茶でしょう」と声を高くして撮影スタッフを非難する場面も出てくる。
けれど、そういう画が撮れたということは、ある程度この試み(吹っかけたやり方)が功を奏したということでもある(ちなみにこの発言の主の言動には、最後まで目を離さぬように。かっこいいぜ)。


同世代(41歳11ヶ月)として唸らされたのは、この3人それぞれのなかに、自分のなかのある部分を見てしまったところ。


俗な予定調和に流されてちゃロクなもんはできねえだろう、と卓袱台を引っくり返す男には、ごくベーシックな部分で共感する。
一方で、はたからみれば自分は、家庭があり、子供を風呂に入れたりおむつを替えたりしているニューファミリー然とした男なんだろうなという自覚もある(それでどこが悪いという気もある)。
さらに、バンドのフロントを張った男ならではの、気負いと一緒に状況まるごと背負ってしまう侠気にもしびれるものがある。
どれも否定できない。
もちろんごく表層の部分ではあるのだけれど、つい我と重ねて見てしまう。
まるで自分を三つの人格に分割して、それぞれが闘っている様子を覗いているような、不思議な感覚があった。
なにげなく見えて、なかなか巧みな構成・編集だと思う。


技術者が新製品や難事業に取り組む姿は『プロジェクトX』方式で取り出せるかもしれないが、音楽家が新曲に取り組む姿を見るのは容易ではない。
そういう“見もの”として一見の価値ありと思う。


ま、それだけに中ほどでインサートされる、他の40代たちのコメントが必要なのかどうか、はなはだ疑問ではあるが。
で、それに加えて、気になったことをもうひとつ。
この作品の内容とは直接関係のないことだけれど、最近やたら「40歳云々」という単語が人のくちにのぼる。
「アラフォー」だなんだってやつ。
これがどうにも、尻がこそばゆくて仕方がない。
率直にいって気持ちが悪い。


いまの40歳前後、つまりは「バブル世代」が「団塊の世代」に似た存在になりつつあるのではないか。


団塊が高度成長期と学生運動を語るように、バブル世代はバブル経済期と当時のキャンパスライフを語る。
団塊に「三丁目の夕日」があるように、バブル世代には「ちびまる子ちゃん」がある。
年を喰うごとに、造語をつくったりして、自分たちが話題になるような風潮をあおる。
自分で自分にスポットライトを当てているようで、なんとも滑稽である。
もし40歳に問題があるとしたら、その自家中毒ぶりにだろう。


一応、世代的には私もそこに属するのだが、バブルの頃が愉しかった覚えがない。
リズム感のないブラジル人や奥手のイタリア人みたいなものかもしれないが、そういう“バブル世代”も現にいるのである。
だからあの時代に、浮わついた消費生活にいそしむよりも前に、バンドやることに魅入られていた元・青年(現・中年)たちの話を聴くのは悪い気分のものではない。




たぶんこの企画は、「40歳」という切り口を提示しないと実現しなかったのではないか。
だったら、まあそんな世代論は、せいぜいダシの代わりにするだけして、さっさと実のあることをカタチにしていくに限る。
そういうことはちょっと思った。


同世代として?
いや、同時代に生活するひとりとして。




40歳問題 ミニ・オリジナル・サウンドトラック