●流星のキズナにこんがらがって


今クール、ひさしぶりに丹念に観ているドラマ『流星の絆』。
宮藤官九郎脚本による軽快な展開、洒脱なセリフが効いていて、とても面白い。
その第9回を観る。


見終わって、どうも不安な気分になった。
いいテンションの話の運びで来ているのだが、最終回目前のここにきて、やや雲行きがあやしい。
要は風呂敷の畳み方、みたいなことについてなのだが。


もっぱら犯人捜しのミステリーとしては私は観ていない。
親子、兄弟のあいだでの感情のゆきかう様子をみるのが愉しい。
または詐欺を仕掛けていくプロセスを、ハラハラ半分オモシロ半分で見守るという見方のほうが中心である。
むしろ全体としては青春譚としてみている。
だからといって、エンディングがどうでもいいというわけではない。
取って付けたような犯人設定では興ざめである。


なんかね、無理から“意外な人物”にしなくていいのになと思うのである。
原作は読んでいないのでわからないが、さすがのクドカンも、結末の大筋はさわれないだろうと思うのだ。
とすると……ええー? ああ、そんな後味の悪い……伏線なんてあったっけ? 
そんなん無理くりやん……という人物じゃないかな、って気がするのである。


単なる「どんでん返しのためのどんでん返し」的な真犯人はごめんやなあ。
今夜の回の、○○○を○○○○○くだりを、もっと細かく心理戦にして描くっていうほうが、上等だと思うんだけどなあ。


ストーリーとして、でかい風呂敷を広げたはいいが、話を広げすぎてまとめきれずあちこちに未解決な尻切れトンボなエピソードを残したまま終わっていくのを、俗に「破綻してる」という。
それでもまあ、途中の過程があれだけ面白かったんだからいいじゃん、みたいに好意的な見方をするひとが最近は多い。
たしかに破綻はしてないけど、別に大した話じゃなかったしな、というのなら、そっちのがいいような気はする。
そもそも風呂敷を畳もうって考えがまちがってるって発想もある。


ただ、私は劇作である以上、風呂敷を畳む段階はあってほしいと思うたちである。
最後にカタルシスにつながるのは快感だし、いい余韻が残る話はやはりいいのだと思う。
なんというか、ストーリーは終わっても音楽はまだ鳴りやまない、というか。
そんな風にイメージできるものが好きなので。


風呂敷の畳み方ってむつかしい。
ストーリーが進みすぎても畳めないし、手前すぎても物足りない。
ジャストな、ここってタイミングを図るのは至難の業である。


ただ、たとえばこの場合の「犯人が誰か」ってことは、ストーリーを牽引する要因のひとつではあるけれど、それはツールなんである。
だから、ツールに足を引っ張られて心中しないでいいのになってことを思う。
意外だけど無理のある犯人より、意外性はなくても無理のない犯人でよいのでは。


と、まあ、これだけ要らぬ心配をしてしまうということは、それだけしっかり術中にはまっているってことではある。
しょーむない終わり方したらどうしよう、と思うほどに。


   *  *  *


こんなふうに書いてると、観ているひとは、私がどーゆー事態を心配しているか、わかるかと思うのですが。
原作読んだよってひとは、このタングルドアップしてるヤツを、どうかニコやかに見守っていてやってください。


望みをもちつつ、来週を待つしかないだ。