●残念ながらチケットは……


ラジオのDJが決まり文句みたいに言うセリフのひとつに、「残念ながらチケットはSOLD OUTです」というのがある。
紹介したアーティストのライブが近々行われるのだが、チケットはすでに売り切れなのだ、という場合にこの言い方が用いられる。


しかし、つねづね疑問に思っていることなのだけれど、これはいったい誰にとって「残念」だというのだろう?


有り体にいって、演奏者、イベンター、チケット販売者、会場提供者などなどそのライブに関わるすべてのひとびとにとって、チケットが売り切れなのは、決して「残念なこと」ではない。むしろ、というか、もちろん「有り難いこと」である。


ならば、この事態を「残念」だと云うのは、誰を想定しての物言いになるのか。


「この情報をいま知って、チケットをいまから買いたい! と思ったあなたにとっては−−残念なことですが、チケットはもうないんです」
唯一、こういうひとたちを想定しての物云いとしか考えられない。
これが省略された形が「残念ながらチケットはSOLD OUTです」という常套句になる。
そうとしか考えられない。


けど、これってどうなんだろう。
一見、聴き手であるリスナーの立場に立った物言いっぽく見えるけれど、果たして本当にそうといえるだろうか?


ちがうと思う。


この情報に接したからって、「そういうライブがあるといま知って、行きたいと思ったが、もうチケットがなくて地団駄踏む」というひとがそれほど多いとは思えない。
地団駄踏むほど悔しがるひとは、それ相応に濃いファンのかたであると推察される。
そういう濃いファンのかたは、独自のルートで−−ラジオの情報なんかよりもずいぶん早くに−−チケット情報は入手するものである。
そういうかたは、チケット争奪戦に敗れて悔しい思いをしていることはあるかもしれないけれど、チケットが手に入らないことをいまさら知って悔しがる、残念がるということはない。


つまり、「そのライブの開催予定をいま知って行きたいと思ったが、チケットがもうないと聞かされてガックシ」というようなリスナーは、事実上、ほとんど存在しないことになる。


とすると、この言辞が内包している真の意図はなんだろう、と私などは邪推するのである。
こう言っている人間もそうだし、関係者一同、誰も「SOLD OUTという事態」を残念と思っていないのだ。
にもかかわらず、「残念ながら」という接頭辞をつける以上、そこにはなにか後押しする心理があるはずだ。


それは、ひとつには脅しなのではないかと思う。
「この情報をいま知ったようなひと」、それから「いま知って、いまごろチケットを欲しいなんて思うひと」は、自分のことを残念だと思ったほうがいいよ、という隠微なる脅し。
この言葉を突きつけられた人間に「ああ、俺って遅れてたかも」という飢餓感を抱かせる、そういうふうに煽るための言い方なのではないだろうか。


もうひとつ重要なのは、そのバンド、ミュージシャンに露ほども興味を抱かない人間にとっては、そのコンサートのチケットが売り切れだろうがなんだろうが、どうだっていいということを忘れている点だ。
そういうひとに対しても「残念ながら」という言辞を押しつけているわけである。
たとえば「残念ながら、日本の総理大臣がまた替わりました」というなら話はわかる。
一応、一国の首相が安定的に支持されず、年中行事のように、確たる根拠(選挙での民意の確認など)もなく替わっていくのは、民主国家としては「残念」なことだろう。異論のあるひとがいることも前提として含めても、総理の退陣をメディアがそのように表現するのは、まあ、ありだと思う。
しかし特定のミュージシャンのチケットの売れ行きを、メディアの受け手全員が同じように気に掛けなくてはならないという法はない。


それより気になること−−このライブがSOLD OUTなのだとしたら、それはなぜなのか? 
SOLD OUTになるだけの価値がどこにあるのか? 
実際、SOLD OUTだったライブはどの辺がその名に値する内容だったのか? −−そういうことは他にもあるのだ。 
だが「残念ながらSOLD OUT」と言ってる限りは、話はそこまで至らない。
なぜなら、そういうひとたちにとっては、SOLD OUTになった時点で「あがり」だから。


そう考えると、SOLD OUTというあがりの次はどうなるかが気になってくるだけだ。
次に大きなキャパシティの会場のSOLD OUTがゴールとして照準に上がる。
それはつまりは「数の論理」である。
行き着く先が、武道館、東京ドーム、日産スタジアム……あとはそれを何DAYSやるかという数の勝負でしかない。
私はそのロジックに加担したくない。


数を示さないと説得できない種類の人間は存在する。
数を示せばそれだけで転んでくれる人間は存在する。
だから最低限、その論理をもっとも低い部分でクリアするくらいのことはする。けれど必要以上の労力をそこに傾けたくはない。


心斎橋クラブクアトロがSOLD OUTになりました。有り難いことです。万歳。よかったよかった。
ではそれはそれとして、いい演奏をやりましょう。いい演奏を期待しましょう。
俺はこれでいいと思う。
要点は「それはそれとして」という切り替えが働くかどうか、なのである。


「残念ながら」というのはターミネイトする言葉だ。
正確には、「SOLD OUTという形ですでに終わっちまった事態ですけど、次の機会にはチェックよろしくね。だってそれくらい人気のあるものなんだから、知らないでいるなんてマズいでしょ、キミ」という、ターミネイトにいざなうエクスキューズを含んだ言葉である。
それでは、そのまま次を待つしかない。
売り切れのライブで見ることができたひとが限られていたのなら、見ることができなかったひとが楽しめるように、そのライブがどうだったのかを興味深く伝えることをもっと考えたほうがいい。


「残念ながら」と言っているかぎりは、「それはそれとして」という形でヒネリを効かせて、内容に目を転じることには繋がらない。
それが私は「残念」なのである。