●ケータイ小説 vs 『流星の絆』


最近、ケータイ小説に関する本を読んでいる。
amazon:「なぜケータイ小説は売れるのか」本田透
amazon:「ケータイ小説的。」速水健朗


主に「ロードサイド文化とケータイ小説」ということが気になってのこと。
それはそれでまた機会を改めて書くことにして、これらの本を読みながら、ちょっと頭のなかでクロスした事柄があったので、そのメモを記しておく。


ドラマのほうの『流星の絆』と関連づけた話である。


金曜ドラマ『流星の絆』が、初回放送で番組平均視聴率21.2%を獲得。


二宮と錦戸の『流星の絆』、高視聴率の陰で「悲惨」の声も


二宮&錦戸『流星の絆』、視聴率低迷も現場は大盛り上がり

TBS 金曜22 流星の絆 全10話
放送回 放送日 視聴率 サブタイトル


第1話 10/17 21.2%  東野圭吾×宮藤官九郎!涙のNo.1ミステリー感動大作
第2話 10/24 17.3%  傘と似顔絵と謎の女
第3話 10/31 15.0%  親の秘密とハヤシの王子様
第4話 11/07 15.6%  真犯人と繋がった記憶
第5話 11/14 15.1%  仇の息子と盗まれた味
第6話 11/21 14.8%  本当の兄弟じゃない
第7話 11/28 14.5%  妹は仇の息子に惚れてるよ
第8話 12/05 11.5%  妹の正体と追いつめられた真犯人
第9話 12/12 15.4%  時効当日最後の告白
最終話 12/19 22.6%  犯人はお前だ!3兄弟の運命は…涙と感動の最終回!


平均視聴率16.30 秋クール1位
F-CAST テレビドラマ視聴率情報


結果的に今クール1位の数字なのだけれど、第2回からラス前まで、視聴率はなかなか厳しいことになっていたらしい。
で、最終回だけ20%を再び突破してる。
それには再放送などの施策が功を奏したなんてこともあるようなのだけれど、やっぱり、要は結末はどうなんの? って興味がいちばん大きく反映してる、その結果だと思うのだ。


リンクを張ったサイゾーの記事にあるように、第1回めに期待したひとたちのうち、いくらかの部分−−東野圭吾ファン、ミステリーファン?−−が、あのぶっとんだ、コミカルとシリアスのハイブリッド脚本に耐えきれず離れた。それはそうかもしれない。
でも、そういうひとたちも結末は気になる。だから初回と最終回だけ数字が上がる。
つまりはキセル乗車みたいな見方をするひとたちがいる。


そんな風に物語に接していったい何が面白いのかと思わないではないけれど、頭と結末だけにこだわるニーズが22%-15%=7%(上記と同様に1%70万人とすると=490万人、世帯数で考えると120万世帯×4人=480万人、×3人=360万人)360万から500万人くらいいると推測される。
この数字は何を意味するか。
これが、たとえばこの記事における数字と参照すると、ケータイ小説を読む層と、かなりの度合いで一致するのではないかと思えるのだ。


『ケータイ小説発行部数522万部、脅威を誇るクチコミのメカニズム』


まあこれは去年のデータである。
しかもケータイ小説すべての累計が522万部ってことなので、ひとりが複数買っているとすると実数は減る。
だからただの偶然の数字の一致ではあるのだろうけれど、ある種の仮想目標としては役に立つ数字だと思う。


300万から500万。


これだけのひとが、『流星の絆』のようなドラマに関心は持つけれど、その内容展開には興味が続かない(あるいは、ついていけない)。
だとしたら、彼ら/彼女らにわかるように書こう。
ケータイ小説発生の背景には、そういう側面がある(らしい)。

「当時、ケータイを使っている人は圧倒的に若者でした。彼らはケータイをツールとして使っているだけで、べつに小説好きでも何でもないわけです。だから、文字が嫌いな人にも読んでもらえる工夫が必要でした。たとえば、難しい言葉は使わない、くどい描写はしない、会話文では話し手により「 」と『 』を使い分ける、などです」


『なぜケータイ小説は売れるのか』p.35

ユーザのいる環境を想像し、開拓しようという姿勢からは学ぶべきものがある。
それはそれとして、とりあえず私なんかは思うのである。
受け手がキセル乗車的受け取り方(始まりと結末をとにかく押さえときたい)を求める。
スポンサーも中身はさておき、数字を求める。
そうなると、肝腎の中身はどうなるのか。


中身の部分で、いろいろと細かな遊び(「妄想係長・高山久伸」や中島美嘉のストレンジな喋りなどなど)をしても、それが一向に評価されないなんてことになったら、誰が苦労してドラマなんて作るのかってことである。
そこを端折っていいよってことになったら、作り手がいる意味はない。


だから私は、ケータイ小説を求める心持ちには関心があるけれど、ケータイ小説を「ただそれだけのもの」として生産するだけのひとには関心がない。ついでにいうと、ラジオ番組を「ただそれだけのもの」として作るだけのひとにも。


なぜなら「ただそれだけのもの」は昔からいろいろあったからである。
子供の読み物だと思われていた漫画がそうだったろうし、とにかく裸出しとけっていうピンク映画なんかもそういう場所だった。
だがいつも、そこに全力を傾注する作家が登場したのだ。
手塚治虫が漫画を変えたのだし、裸さえ出しとけば何やったっていいんだって考えた神代辰巳曾根中生根岸吉太郎金子修介らがロマンポルノという場所で面白いものを作っていった。


ケータイ小説の世界で、これからいろんな作家が出てくるかどうか。
それはわからない。
求めていた以上のもの−−自分のそれまでのキャパシティを凌駕するもの−−に出会ったときの驚きと面白さってのはあるから。キャパに収まる範囲のものを書いて、読んでという連環だけだと、その外側にいる人間には届かない。


といいつつ、かく言う私もケータイ小説的なる表現の在り方やそういう表現を受容する精神の在り方には興味があるのだけれど、ケータイ小説本体にはどうしても手が出ない。『濃いゾラ』……もとい、『恋空』や『赤い糸』やらを、書店で何度も手に取るのだがぱらぱらとめくってみるだけで、そっと棚に戻してしまう。これをレジに持っていくくらいなら、まだ仲村みうの写真集とか松金洋子のDVD「水着でゴルフ〜レッスン編〜」を買うほうが恥ずかしくない、とかなんとか、オヤジな自意識が邪魔をする。
あるいは、そもそもがケータイ小説なんだからその在り方を知りたいのなら、やはりケータイで読むのが本道だろうという気もする。
だがPHSユーザである私は、どうやったらケータイ小説サイトにアクセスできるのかわからない。そうか、こういうデジタル・デバイドか、とひとりごちる。こういう言い訳も働く。
挙げ句、PCで魔法のiらんどのサイトにアクセスすることでなんとか実物を読もうとしてみる。
ただこれも、やはり相当に苦しい。
たとえば『恋空』の続編『君空』というのを見つけて、「総ページ数:299ページ」という量にやや恐れを抱きつつクリックしてみた。
だが最初こそ1ページ10秒くらいかけて読んでいたものの、5ページも進むとその速度ですら耐えられなくなる。2,3秒でスクロールして次をクリック。余白と改行とリフレインが多用されたページはそのくらいでも視認できる。つまり、1分間で20ページ進むのだ。おそらく15分もあれば読破できるだろう。ただ、3分間、45ページで私は断念した。
これならまだ松金洋子のDVD「水着でゴルフ〜実践ラウンド編〜」を最後まで見るほうが耐えられる。私のなかの近代的自我がそう叫ぶ。
ケータイ小説そのものを読み通すのは、いまの私にはどうやら無理だと悟った。だから私もキセル的に、原因と結果を知ろうとして、最初に挙げた2冊の研究書に頼っている。あんまり他人のことをとやかくは言えないね。


ともかくその、『流星の絆』のなかに味を見出した100万人と、テーブルにはついたのに味を見出さなかった500万人という数字だけは(私が勝手に引っ張りだした数字だけれど)メモしておこうと思った次第(長すぎて、すでにメモの体を成していないが)。