●福に縁なし、懐に円なし


年始の初売りといえば、福袋である。
基本的に、私はあれが買えない。
カネが惜しいのである。
昔、吉祥寺に住んでいた頃、近所の小洒落た雑貨屋で3000円のものを買ったことがあるだけだ。
うむ、これはまず自分から買い求めやしないよな、というようなランチョンマットやら電気スタンドやらゴミ箱やらが入っていた。
袋を開ける楽しみはあった。
けれど、結局、「これはいったいどうだかな」というようなピンク色のゴミ箱が部屋の隅に居座ることになった。
目障りに思うのだが、その存在にもそのうち馴れてしまった。
馴れてしまう自分にも、「いったいどうだかな」という気分が残って、どうだかなの二乗でこれはいったいどうなんだ。
それきり、福袋は買っていない。
というか買えなくなった。
要するにケチなのである。


そう思ってまわりを見回してみると、「福袋を買う人」と「買わない人(買えない人)」で、人間は分けられるという気がする。
でもほんとのところを考えていくと、果たしてどちらがケチなんだろう?
私は後者だが、それは福袋を買って欲しくもないモノが入っていたら……と想像すると、勿体なくてとても手が出せないからだ。
これってケチだよな。
ケチです。確認するまでもなく。


しかし福袋を買うひとはというと……よく言うじゃないか。
「1万円でこの中身が入っていると思うと得でしょ」とか。
ん?
つまり、何が入っていようと、払った金額以上の額面のモノが入っているということで納得できるってこと?
自分が欲しかったモノであってもそうでなくても、意識すらしたことないモノでも、一般的にみて「値打ち」があればいいってこと?
それって……ケ……うほん。
(深呼吸してちょっと考える)


えーと、やっぱりそれってケチ、……といって悪ければ、ケチ的体質がある種の形をとって発現したってことにならんかな?


いわゆるケチというのが「損したくない!」ってひとだとすると、こっちは「得したい!」ってひと。
でもまあ、どっちもどっちだって気がしなくもない。


そんなことを考えるのも、実は自分がモノに執着する人間だってことに気付いていて、それにうんざりしているからだ。
モノを手に入れるって行為に、なんだかんだ理屈をつけたいんだね。


スチャダラパーBOSEの本、『明日に向かって捨てろ!!』を、ときに爆笑、ときに苦笑、往々にして失笑しながら、ああこれは自分だ自分のことが書いてあると半ばヒンヤリした気持ちで読んでいる。
まったく他人事とは思えない。しみじみ空恐ろしくなってくる。


ガジェットの巣の上で。イージーゲッター。捨てる苦労(スケアクロウ、ね)。暗くなるまで捨てて。物もちに明日はない。


不安に駆られて、福袋にやつあたりしてしまったような。
物持ちの猜疑心と思ってゆるしておくれ。


明日に向かって捨てろ!!